幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【前編】 (3/4ページ)

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さて嘉永6(1853)年、アメリカのペリーが浦賀に来航し日本に開国を求めると、幕府は諸大名や有識者に意見を求め、土佐藩にも意見書提出の要請が届きました。

山内容堂(Wikipediaより)

この非常事態に際し有能な人材の必要性を感じた15代藩主・山内豊信(容堂)は、保守派による藩政を抑えて改革したいと考え、東洋を仕置役(参政職)に抜擢します。

東洋は富国強兵論などを主張し、当時西洋から伝わっていた近代式の武器や軍隊の育成、海軍の強化による海防強化、そして土佐藩の身分制度改革などの藩政改革を主導していきます。

今度は隠居に

順調に藩政改革を進めていた東洋ですが、安政3年(1855年)3月、参勤交代に伴って江戸で大きな事件を起こしてしまいます。

江戸へ行った東洋は、藤田東湖など著名な知識人らと親交を結びますが、酒宴の席で山内家の姻戚である旗本・松下嘉兵衛殴打する事件を起こしてしまい罷免され、家禄を150石に減らされた上に帰郷して隠居を余儀なくされてしまいます。

仕事を失ってしまった東洋は、高知郊外に私塾(少林塾・鶴田塾)を開き、人材の育成に尽力するようになります。

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