「鎌倉殿の13人」実朝、まさか日本脱出!?第42回放送「夢のゆくえ」予習
和田一族の滅亡により、鎌倉を源氏の手に取り戻す決意を固めた源実朝(演:柿澤勇人)。
しかしまだ若い実朝が主と仰ぐのは、西の朝廷すなわち後鳥羽上皇(演:尾上松也)。このままでは、鎌倉が京都の言いなりになってしまいます。果たして北条義時(演:小栗旬)はどう実朝と向き合っていくのでしょうか。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、第42回放送のサブタイトルは「夢のゆくえ」。予告編から察する限り、実朝の渡宋計画まで一気に時代は進むようです。
果たして夢のゆくえは育王山か、それとも……。今回も鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』など予習していきましょう。
頼家の遺児・栄実が粛清される時は建保2年(1214年)11月25日、京都からの飛脚が鎌倉に到着しました。
「申し上げます。和田の残党が故金吾将軍家のご子息を担いで謀叛を企んでおり、11月13日に大江殿の家人が討ち滅ぼしました」
故金吾将軍家とは先代鎌倉殿・源頼家(演:金子大地)。その遺児であった千寿丸(せんじゅまる。千手丸とも)は祖母・政子(演:小池栄子)の命により昨年11月に出家。臨済宗の開祖である栄西(ようさい)の弟子として栄実(えいじつ)と改名しています。
京都は一条北あたりに滞在してところを攻められ、自害したということです。享年14歳。尼御台・政子は亡き源頼朝(演:大泉洋)との血を引く子孫がまた一人喪われ、悲しみにくれたことでしょう。
一幡と善哉(公暁)だけじゃない!源頼家「第3の女」が産んだ栄実と禅暁【鎌倉殿の13人】余計な権力争いに巻き込まれないよう出家させたのでしょうに、源氏嫡流の血統は見逃されなかったようです。
晴。六波羅飛脚到着。申云。和田左衛門尉義盛。大學助義淸等餘類住洛陽。以故金吾將軍家御息〔号禪師〕爲大將軍。巧叛逆之由。依有其聞。去十三日。前大膳大夫之在京家人等。襲件旅亭〔一條北邊〕之處。禪師忽自殺。伴黨又逃亡云々。
※『吾妻鏡』建保2年(1214年)11月25日条
ただし『吾妻鏡』では「禅師(ぜんじ。禅僧)と号する」とあるのみで栄実とは特定されておらず、また『尊卑分脈』などの諸史料において栄実は承久元年(1219年。建保7年)に自害したとされています。
また千寿丸が泉親衡(いずみ ちかひら)と共に落ち延びて出家し、天寿をまっとうしたという伝承もあるようです。
伊豆へ流された北条時政の死年が明けて建保3年(1215年)1月8日、伊豆から鎌倉に飛脚が到着。さる1月6日に北条時政(演:坂東彌十郎)が亡くなったとの報せです。享年78歳。
以前「牧氏事件(元久2・1205年閏7月。実朝暗殺未遂)」で鎌倉を追放されておよそ9年半。近ごろ腫物ができていたとのこと。
霽。伊豆國飛脚參。申云。去六日戌尅。入道遠江守從五位下平朝臣〔年七十八〕於北條郡卒去。日來煩腫物給云々。
※『吾妻鏡』建保3年(1215年)1月8日条
かつて鎌倉で権勢の限りを振るい、悪妻の讒言によって罪なき畠山重忠(演:中川大志)を葬り去った時政。
激動の鎌倉を生き抜いた時政。その最期は大河ドラマに描かれるのだろうか。
鎌倉を追放されてからの10年間は特に事件(≒謀叛を疑われる)などもなかったでしょうし、分不相応に穏やかな晩年だったことでしょう。
※ただし孫の北条泰時(演:坂口健太郎)からは激しく批判され、幕府草創の功労者(頼朝・政子・義時ら)を祀る年中行事から外されるなど、存在を否定されました。
ちなみに、妻のりく(演:宮沢りえ。牧氏)は娘のきく(演:八木莉可子。平賀朝雅未亡人、藤原国通と再婚)を頼って上洛。京都で楽しい晩年を過ごしたということです。
りくは最終回(義時の死)時点ではまだ生きており、まさかの再登場も噂されているようですが、果たしてどうなるのでしょうか。出てきたら楽しみですね!
相次ぐ怪異と和田一族の亡霊和田合戦からおよそ2年半が過ぎた建保3年(1215年)11月25日。実朝は不思議な夢を見ました。
(ウリン、ウリン……)
滅ぼされた和田義盛(演:横田栄司)はじめその一族の亡霊が、実朝の前に大集合したのです。
見渡す限りのヒゲ・ひげ・髭……無数の和田義盛に囲まれた実朝は、再会を喜んだのでしょうか。
(和田よ、そなた死んだはずでは……)
(我ら鎌倉一の忠臣なれば、ウリンの敵を滅ぼすまで成仏などできませぬ。さぁ、誰と戦いましょうか。小四郎ですか、ねぇウリン……)
「もうよい、戦さはたくさんだ!」
魘(うな)された翌朝、実朝は高僧の退耕行勇(たいこう ぎょうゆう)を招いて和田一族を供養させたということです。
於幕府。俄令行佛事給。導師行勇律師云々。是將軍家去夜有御夢想。義盛以下亡卒群參御前云々。
※『吾妻鏡』建保3年(1215年)11月25日条
近ごろ、鎌倉のあちこちで怪異現象が続いたのは彼らのせいだったのかも知れません。11月12日には御霊神社(現:鎌倉市坂ノ下)でお祓いをしたため、祓われた和田一族の亡霊が夢の中まで出てきたのでしょうか。
実朝「子孫を残さない」宣言に動揺走る後鳥羽上皇に忠義を尽くす実朝は、とうぜん朝廷からの評価も高く、順調に昇進していきました。むしろ順調すぎて怖いくらいです。
古来「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言うように、これを心配するのが義時と大江広元(演:栗原英雄)。
順調すぎるほどのスピードで出世していく実朝。都には「位撃ち」という呪いもあるとか(イメージ)
「亡き右大将家(頼朝)は運を使いきってしまわぬよう、官位を辞退してきたというのに、今の鎌倉殿は分不相応な官位を望んでおいでだ。私の意見には耳を貸して下さらないので、大江殿から何とか言っていただけませぬか」
「まったく、私も日ごろ悩んでおりました。右大将家は我らに意見を求めて下さったというのに、今ではそういうこともありません。今回小四郎殿から相談をいただいたキッカケに、申し上げてみようと思います」
「かたじけない。分不相応な身分は必ずや子孫に報いがめぐるものですから、そうならないよう願うばかりです」
晴。廣元朝臣參御所。稱相州中使。御昇進間事。諷諌申。須令庶幾御子孫之繁榮給者。辞御當官等。只爲征夷将軍。漸及御高年。可令兼大將給歟云々。仰云。諌諍之趣。尤雖甘心。源氏正統縮此時畢。子孫敢不可相繼之。然飽帶官職。欲擧家名云々。廣元朝臣重不能申是非。即退出。被申此由於相州云々。
※『吾妻鏡』建保4年(1216年)9月20日条
「……という事ですので、どうか官位を求められるのはほどほどに……」
勇気を出して諫言した広元でしたが、実朝はこれを拒否。その言い分はといいますと……。
「そなたや小四郎の申す事、確かにもっともである。ただし源氏の血統は私の代で終わるのだ。鎌倉殿を継ぐ子孫はいない。なのでせめて名誉を残しておこうと分不相応な官位を求めているのだ」
まだ20代の若さで「子孫がいない」と断言するのは、子孫を「残す気がない」意思表示。
(御家人たちの権力抗争に巻き込まれるくらいなら、源氏の血統など絶やしてしまえ)
いくら静かに心安らかに暮らすことを願っても、それが叶わないのは源氏の血統ゆえ。実朝の断固たる決意を前に、広元はそれ以上何も言えなくなってしまうのでした。
この辺りから、実朝に養子を迎え(させ)る話が浮上してきたものと考えられます。
「前世の弟子」陳和卿と出会う宋の技術者・陳和卿(演:テイ龍進)が実朝に謁見したのは建保4年(1216年)6月15日。
源実朝と前世の絆が?テイ龍進の演じる宋人・陳和卿とは何者か【鎌倉殿の13人】晴。召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拝。頗涕泣。將軍家憚其礼給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建暦元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符号于和卿申状。仍御信仰之外。無他事云々。
※『吾妻鏡』建保4年(1216年)6月15日条
「おぉ、我が師よ!」
いきなり泣き叫ぶ陳和卿の様子に何事かとドン引きする一同。陳和卿が言うには
「あなた(実朝)は前世における私の師匠、医王山の長老だったのです。私はあなたの弟子としてお仕えしておりました。今日この日の再会を、喜ばずにはいられないのです!」とのこと。
前世などと、一体何を根拠に言っているのか……しかし、当の実朝にも心当たりがあったのです。
「ふーん……実は私も六年前、そのような夢を見てな。今まで誰にも話したことがないので、示し合わせたとも思えない。やはり私たちは、前世からの因縁によって引き合わされたのかも知れないな」
というわけで意気投合した実朝は、いつか宋に渡って前世の故地・医王山を見てみたいと唐船の建造を命じました。
晴。將軍家爲拝先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諌申之。不能御許容。及造船沙汰云々。
※『吾妻鏡』建保4年(1216年)11月24日条
「いや、ちょっとお待ち下さい!」
「鎌倉殿が鎌倉どころか日本国からいなくなったら、政治はどうなってしまうのですか!」
義時と広元は必死になって止めますが、実朝は聞く耳をもちません。
「私などいない方が、そなたらは政治がやりやすかろう?厄介者は退散じゃ」
「そんな、ちゃんと帰って来ますよね?!」
たとえお飾りといえども、鎌倉殿がいないとさすがに東国政権の正当性が失われ、御家人たちも従わなくなるでしょう。
「さぁな。考えておこう」
そして翌建保5年(1217年)4月17日、ついに唐船が完成したのでした。
終わりに晴。宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆〔義時朱〕監臨給。信濃守行光爲今日行事。随和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午剋至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。
※『吾妻鏡』建保5年(1217年)4月17日条
果たして実朝の夢はどこへ行くのか……結論から言えば船は浮かばず、渡宋計画は頓挫してしまいます。
読者としては「いきなり鎌倉からの直行便ではなく、大宰府あたりまで普通に行って、そこから出航すればよかったのでは?」と思ってしまいますが、やっぱりロマンを追い求めたかったのでしょうか。
由比ヶ浜の波打ち際に崩れ落ちる実朝が目に浮かぶようですが、果たして三谷幸喜はこの場面をどう彩るのか、今週末が楽しみですね!
※参考文献:
五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 8承久の乱』吉川弘文館、2010年4月 三谷幸喜『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 完結編』NHK出版・2022年10月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan