幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【後編】

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幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【後編】

急進的な改革者

前編では、幕末の土佐藩の重鎮・吉田東洋(よしだとうよう)の前半生のことを解説しました。彼は登用されたり失職したりと浮き沈みのある半生を送り、一方で若手の育成に努めるなどしたことが分かりました。

幕末期に暗殺された土佐藩の重鎮・吉田東洋はどんな人?その人となり・実績に迫る【前編】

さて、殴打事件がきっかけで藩政から退いていた東洋でしたが、やはりその才能を無駄にするのは惜しいと考えていた藩主・山内容堂は、安政4(1857)年12月に東洋を赦免して、翌年1月には参政として藩政に復帰させました。

再び藩政に関わるようになった東洋は、自分のいわば弟子にあたる後藤象二郎福岡孝弟らを起用します。また、開国貿易のために長崎に人材を派遣したり、洋式兵器を採用して近代的な軍隊を作るための軍制改革などを断行していきました。

藩主・容堂と東洋の基本思想は公武合体富国強兵でした。朝廷と将軍家が協力して、ペリー来航以降の国難を乗り越えようとしたのです。

しかし、そのあまりにも急進的な考え方は、保守的な藩士や、外国人を忌み嫌う尊皇攘夷を唱える土佐勤王党には受け入れられず、藩内では政治的対立が生じます。

土佐勤皇党のリーダー・武市半平太の像

暗殺とその後の土佐藩

安政6年(1859年)2月、東洋を一番の頼りにしていた山内容堂は、安政の大獄の煽りを受けて謹慎となり藩主を引退しました。

すると、土佐勤王党のリーダーである武市半平太は、公武合体派である東洋を排除するため、藩政改革に反対する保守派層と協力関係を結びます。

そして文久2(1862)年、東洋は講義の帰宅途中に、武市半平太の命を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助から襲撃されて暗殺されました。享年47歳。

その後、藩政は土佐勤王党や保守派の家老によって一時的に主導されましたが、やがて情勢が変わって土佐勤王党が弾圧されるようになると、今度は後藤象二郎や板垣退助などの東洋の弟子たちが土佐の藩政の中心人物となり、明治維新を迎えることになるのです。

板垣退助像

明治時代になると、日本では薩長土肥と呼ばれる四つの藩が中心となって政治運営を行っていきますが、この四藩に共通しているのは、幕末に富国強兵の藩政改革を断行していったことでした。

後世から見れば、この四藩は先見の明があったと言えるでしょう。そして土佐藩では、その基礎を作ったのが吉田東洋という人物だったのです。

暗殺され、歴史の表舞台からは途中退場してしまった上に歴史もののエンタテインメント界隈では悪役扱いされている感がありますが、実はかなりの重要人物だったことが分かります。

47歳という、これからという時期に暗殺されたことや、それまでの彼の活躍ぶりを見ると、吉田東洋という人が明治維新以降も生きていればきっと大物の政治家になれたのではないかという気がしますね。

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