文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【前編】
なぜ墓が北海道に?
歌人・石川啄木(いしかわ・たくぼく)は岩手県で生まれ、東京で亡くなりました。しかしその墓はなぜか北海道にあります。彼の生涯を追いながら、その理由を解説します。
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1886年、石川啄木は岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市日戸)で生まれました。本名は石川一(はじめ)です。
幼少期の啄木は神童と呼ばれていました。通常より1年早い5歳で渋民尋常小学校へ入学して首席で卒業し、12歳で盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に入ります。
ここで彼は4歳年上で後に言語学者となる金田一京助と親しくなり、彼の勧めで文芸雑誌『明星』を愛読するようになりました。
で、与謝野晶子の大ファンになって短歌の世界にのめり込み、文学を志します。
後に妻となる堀合節子ともここで出会い、恋に落ちました。啄木の墓が北海道に設置されるまでの経緯をたどる上で、この節子の存在は欠かせません。
1904年(明治37年)婚約時代の啄木と妻の節子(Wikipediaより)
しかし、文学と恋愛にハマった啄木は授業も欠席が目立つようになり、4年生の時にテストで連続2回カンニングをしたことがバレて退学させられます。
詩人としてデビュー啄木は退学を機に上京を決意し、愛読誌『明星』の出版元である新詩社を訪ね、与謝野鉄幹・晶子夫妻との関係を築きます。
しかし、勢い任せで上京したものの就職できず、生活に困窮してわずか半年で盛岡へ帰郷します。
ただ、東京で築いた新詩社との縁により、帰郷後には新詩社同人として『明星』へ寄稿するうち、文学界から注目を浴びるようになります。
そして19歳でデビュー作の『あこがれ』を発表し、天才詩人として名が知られるようになりました。詩人としての活動が軌道に乗ってきたため、中学時代からの恋人である節子と結婚します。
しかし啄木は、結婚式をすっぽかしました。というのも、ちょうどこの頃に父・一禎が宗費滞納により住職の資格をはく奪されてしまい、一家は路頭に迷っていたのが原因でした。
この時、啄木は詩集『あこがれ』の刊行のため上京しており、結婚式のために帰郷する予定でした。しかし「今帰ったら文学の道を諦めて家族の面倒を見なきゃいけなくなる」と考え、式をすっぽかすという暴挙に出たのです。
そのため結婚式は新郎不在で、節子と親族だけという奇妙なものになりました。
北海道へ結婚式のすっぽかしという暴挙に出た啄木ですが、結局は帰郷して父・一禎に代わって一家の大黒柱となります。
しかし文学家としての稼ぎだけでは足りず、渋民尋常小学校の代用教員を務めたものの一年ほどで退職。
この頃から、彼は北海道での新生活を夢見るようになります。
というのも、函館の苜蓿社が発刊する雑誌『紅苜蓿べにうまごやし』への寄稿をしていたため、その方面に伝手ができていたからです。
啄木は函館へと移住しますが、妻・節子は盛岡の実家へ、母・カツは盛岡に残り、家族離ればなれの生活が始まりました。このあたりから、啄木と北海道とのつながりが見えてきますね。
北海道では歌人・宮崎郁雨の引き立てもあり、函館商工会議所へ勤務したり、函館区立弥生尋常小学校の代用教員を務めたりして生計を立て、その後は北門新報社の校正係や小樽日報社の記者になります。
とはいえ、いずれも短期間で退社しています。
その後、彼は釧路新聞社に勤務しますが、やはり3ヶ月程で辞ました。しかも啄木は家族へ一切仕送りをせず、3人の女性と関係を持って遊んでいたと言われています。
ちなみに、人気漫画『ゴールデンカムイ』でも、この記者時代の石川啄木が登場します。
この頃、妻・節子は自身の家財を売って家計を支えるしかありませんでした。(後編へ続く)
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