さらば仲本工事!元気になる!!永遠のドリフターズ爆笑伝説20

伝説のコント集団を支えた喜劇人が、この世を去った。だが、彼らが遺した笑いは、今後も我らに勇気をくれる!
10月19日に亡くなった『ザ・ドリフターズ』の仲本工事さん(享年81)。その突然の死は、日本列島を悲しみの渦に巻き込んだ。『8時だョ!全員集合』(TBS系)の最多出演ゲストだった小柳ルミ子(70)は、ブログで〈工ちゃん“お前 まだ来るの早いよ!〉って長さんに叱られるよ」と無念さをつづった。
『ダウンタウン』の松本人志(59)は、ツイッターで〈お笑いの人の哀しい終わりはキツイです。ご冥福をお祈りします。。。〉と投稿。
盟友の加藤茶(79)は、公式サイトで〈まだまだ一緒にやりたいことが沢山あっただけに残念です〉とコメントを発表している。
芸能レポーターの城下尊之氏は、故人の人柄を伝えるエピソードを明かす。
「約20年前、タレントの副業がはやっていた頃です。仲本さんが当時経営していた、渋谷の居酒屋を訪ねたら、ご本人が“母親が働きたいと言うもんで”と、気さくに話してくれたんです。今思えば、いかにも仲本さんらしい理由でした」
仲本さんはまた、ドリフのメンバーとして、お茶の間に笑いを届け、日本を元気にした功労者でもある。
「ハツラツとした体操コントが得意でしたが、天然ボケの素養もありました。生き返る死体の役で、棺桶から起き上がるはずだったのに、熟睡したままだったことも」(放送作家)
ここでは、そんなドリフの爆笑秘話を紹介することで、明るく仲本さんを追悼したい(以下一部敬称略)。
■音楽バンドとしてスタート
ザ・ドリフターズが、音楽バンドとしてスタートしたことはよく知られている。
「当初はメンバーが流動的で、10人以上いたときもありました。いかりやさんと加藤さんは1962年に途中加入。やがて新リーダーになったいかりやさんが、コミック路線を強化し、それに合う人材を集めたんです」(ベテラン芸能記者)
いかりや長介(享年72)、加藤茶、荒井注(享年71)、高木ブー(89)、そして仲本工事。この顔ぶれがそろったのは、高度経済成長まっ盛りの65年のことだった。
「芸名をつけたのは所属事務所の大先輩だったハナ肇さん。芸能は水ものなので、水にまつわる名前がいいと、さんずいのつく“注”や“茶”が決定。仲本さんは、ケガが多くて、体が“工事中”だからという理由だそうです」(前出の放送作家)
■ビートルズの前座を務めて
ビートルズの日本公演で前座を務めたのはその翌年。前後して、テレビのバラエティ番組に出演するようになり、人気を集めていく。
「そんな頃、冬の寒い日に、いかりやさんの自宅前で、半日間、立ち尽くしている少年がいました。若き日の志村けんさん(享年70)です」(前同)
夜が更けて、雪の降る中、ようやく帰宅したいかりやに、志村は弟子入りを直談判。ちょうど欠員が出ていたため、ドリフの付き人になることが認められる。
■『8時だョ!全員集合』が放送開始
ドリフを国民的人気者にする生放送の公開番組『全員集合』の放送開始は69年10月。だが、番組プロデューサーだった居作昌果氏は、著書『8時だョ!全員集合伝説』(双葉文庫)で、こう記している。
〈グループを使ってバラエティをやるのなら、クレージーキャッツでやるべきだ、という意見も多かった〉
だが、フタを開けてみれば、視聴率はうなぎ上りに。その立役者は加藤だろう。
〈加藤の笑いに対する運動神経のよさは、抜きん出ている。天才的である〉(前掲書より)
子どもの人気者だった加トちゃん。特にバカ受けしたのは、あのギャグである。
「広島で関係者にストリップ劇場に連れて行かれたドリフは、他の客にバレないように最前列で見ていました。そのとき、舞台のお姉さんが口にしたんです。“ちょっとだけよ、あんたも好きねえ〜”。それが鉄板ギャグに」(前出の芸能記者)
■視聴率40%台の“お化け番組”に
PTAは顔をしかめたものの、子どもたちは諸手を挙げて支持したのだ。『全員集合』は、開始翌年に、視聴率40%台の“お化け番組”になる。
「最高視聴率は、キャンディーズがレギュラー入りした73年4月7日の放送回で、50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これは、日本のバラエティ番組史上最高の数字です」(前同)
ところが、絶好調のドリフを揺るがす大事件が発生する。
■荒井注の脱退、志村けんの加入
「『ジス・イズ・ア・ペン』『なんだバカヤロウ!』と、ふてぶてしい態度のキャラで人気だった荒井注さんの脱退です。ドリフにとって大きな痛手でした」(同)
荒井は74年3月に芸能界を引退(のちに復帰)。その穴埋めで加入したのが、付き人だった志村だ。
「独自に『マック・ボンボン』というコンビを作って、テレビにも出ていた志村さんが、いかりやさんは気になっていたそうです。そんな志村さんを新メンバーに推したのは、加藤さんだとか」(お笑いライター)
7歳離れている加藤と志村だが、プライベートでも親しかった。
「志村さんは付き人時代、一度脱走したものの、考え直して復帰を希望します。ただ、いかりやさんが怖いので、話しやすい加藤さんに相談して、取り次いでもらったことも」(前同)
付き人に戻った志村は、実家がある東村山市が都心から遠いので、加藤の自宅に居候することに。
■加藤茶に運転手をさせた志村!
「その頃の志村さんは、運転免許を持っていないので加藤さんが運転する車で、住まいと仕事場を行き来していました。つまり、スターの加藤さんに運転手をやらせていたんです。また、家では加藤さんより先に風呂に入って呆れさせていました」(同)
まるで、コントのような生活を送っていたわけだ。
ドリフ入り直後はギャグが空回りすることもあったが、『東村山音頭』の大当たりで一躍、人気者に。以後、ヒゲダンス、早口言葉、カラスの勝手でしょなど、次々にヒットネタを生み出した。『全員集合』の第2次黄金時代を作った志村は、天性のコメディアンだった。
「あるとき、民宿のコントで、トイレが傾いて、中にいる志村さんが、壁を破って外に飛び出すというネタが予定されていました。ところが、トイレのセットが完全に倒れてしまったんです」(放送作家)
志村は無事だったのか?
「加藤さんと高木さんが、倒れたセットを持ち上げると、志村さんは自力で脱出して、そのままコントを続けました。あのプロ意識の高さはすごかった」(前同)
■『オレたちひょうきん族』と視聴率争い
80年代には裏番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)と視聴率争いを展開。そんな中、84年に番組史上最大の“放送事故”が発生した。
「生放送のオープニングで突然、画面が真っ暗に。会場が停電となったんです。やむをえず、懐中電灯を手にゲストを紹介したりして、時間をつないだ。このとき、加藤さんは“なんだかワクワクしちゃいますね”と言って、いかりやさんに怒られていました」(同)
結局、停電は9分後に復旧する。
「いかりやさんが“8時9分半だヨ!”と叫んで、オープニングを仕切り直し。以後は生放送中に9分のロスを埋めるための調整が行われ、ゲストの菊池桃子さんは、超急ピッチで曲を歌う羽目に。後半のコントはカットされました」(同)
このアクシデントはお茶の間をくぎづけにし、視聴率は大幅にアップした。
■計算され尽くしたコント
停電事件は、あくまでハプニングだったが、本来の『全員集合』は、事前にネタを考え、稽古を重ね、計算され尽くしたコントを披露する番組だった。
「いかりやさんを中心に、週に2日はネタ出し会議をしていましたね。でも、いいネタが浮かばず、ずっと沈黙が続くなんてこともあったようです」(前出の城下氏)
提案されるネタの可否は、いかりやがすべて決めていたという。
「いかりやさんには、独善的な部分があったという評価もあります。ただ、常に優先していたのはグループを守ることでした」(芸能記者)
■「いかりや長介というワンマン社長がいる会社みたいなもの」
小誌2022年1月10・17日合併号のインタビューに登場した仲本は、こう語っていた。
「ドリフというのは、いかりや長介というワンマン社長がいる会社みたいなもの。社長の言うことが絶対で、誰も反対できない。でもね、メンバーにはとても厳しかったけど、リーダーとしては素晴らしかった」
似たことを他のメンバーも言っている。
「いかりやさんは、後年は確執があったとされる志村さんの才能を誰より認めていました。また、お荷物に見られがちな高木さんも必要なんだと、口にしていました」(放送作家)
20年に他界した志村さんの追悼番組で、こんな場面があった。
「司会者にコメントを求められた高木さんは、何も答えなかった。すかさず、加藤さんが“今、完全に寝てたでしょ?”と突っ込んで、スタジオを爆笑させたんです。これこそが高木ブー。あの世で、いかりやさんも大満足でしょう」(前同)
最後に、仲本が本誌に遺した言葉を紹介したい。
「今は、とにかく楽しく暮らしたい。だって、1日でも楽しくない日があったら、もったいないでしょ?」
家族全員がテレビの前に集合した、昭和の土曜8時が懐かしい。ドリフよ、永遠なれ!
■まだある!ドリフ「爆笑伝説」
ビートルズの前座だったドリフ 1966年、『ビートルズ』日本武道館公演(全5回)の前座を3度務め、『のっぽのサリー』を演奏。ボーカルは仲本工事だった。微妙な空気になった会場から、いかりや長介が「逃げろ!」と叫んで撤収。
『全員集合』セット火災事件 1977年5月、西城秀樹、郷ひろみらが参加した探検隊コントの最中、モデルガンの火花が小道具に引火して非常ベルが鳴り響いた。すぐに火は消えたが、いかりやが「探検ここまで!」とコントは中止に。
知られざる「学校コント」の真実『全員集合』では舞台装置に手を抜かず、毎回、大がかりなセットが組まれた。大幅な予算超過となった翌週は、調整のために、黒板や机、イスなど、安上がりですむ学校コントになることが多かったとか。
驚きのギャラ事情 後年の志村けんの告白によれば、ギャラの配分は、いかりやの6に対して、高木・仲本・加藤・志村各1だったとか。不満を持っていた志村だが、ドリフにとってリーダー・いかりやが不可欠だったと認めている。
加トちゃん脱退未遂事件 荒井注と加藤は2人で、いかりやに脱退を告げる約束をしていたが、荒井が先走ってしまう。「大変なことに」と慌てるいかりやに、加藤は何も言い出せず残留。このとき辞めていたら歴史は変わったかも?
『東村山音頭』は志村の曲ではない!? 元は三橋美智也と民謡歌手のデュエット曲だった。志村はそれを大胆にアレンジして持ちネタにしたため、原曲に3丁目、4丁目といった歌詞はない。現在、ご当地の東村山駅前には志村の銅像が立つ。
高木ブーのマラソン挑戦 ドリフはホノルルマラソンに何度か挑戦しており、いかりやと仲本工事は完走経験あり。一方、出場者が多く、スタートの2キロ後方から走り始めた高木ブーは、スタートラインにたどり着く前にギブアップ!
霊柩車に「なんだバカヤロウ!」元メンバーの荒井注は2000年に他界。出棺時、参列者は荒井のギャグ「なんだバカヤロウ!」を叫んで霊柩車を見送った。なお、亡くなる前に当時のメンバーと荒井はCMで共演しており、仲は悪くなかった。
調子が悪ければ……『全員集合』は打ち合わせや稽古に時間がかかるので、誰かが穴をあけると一大事。仲本はいつも「体調管理だけは徹底。異変を感じたら、すぐ医者に」と語っており、その習慣は晩年まで変わらなかった。
最後の「全員集合」の呼びかけ人 2017年のテレビ番組で、他界したいかりやと荒井を除く4名が勢ぞろい。復活を呼びかけたのは、再集結に消極的と噂されていた志村だった。12年ぶりにコントを披露し、結果として、これが最後の機会に。