【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】

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【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】

「みな心を一つにて奉るべし。これ最期のことばなり(意:みんな聞いて。これが私の、最期のメッセージです)」

……皆一心而可奉。是最期詞也……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条

この有名なフレーズで始まる尼将軍・政子(演:小池栄子)の演説。後鳥羽上皇(演:尾上松也)との決戦(承久の乱)に際して御家人たちの心を奮い立たせた『吾妻鏡』屈指の名場面です。

伝承や物語、教科書などでは政子が自ら熱弁を奮ったイメージが強いものの、実際には安達景盛(演:新名基浩)による代読でした。

ところでこの演説、史料によって若干バリエーションが違います。今回は本家?鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と、軍記物語『承久記(承久軍物語、承久兵乱記など)』の違いを紹介。

果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どんなアレンジが彩られるのか、予習になればと思います。

政子の演説『吾妻鏡』バージョン

……二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条

御家人たちを奮い立たせた政子の演説

【意訳】政子は御家人たちを集め、安達景盛に示し含ませた。曰く
「皆の者、心一つに聞くがよい。これが最後の言葉である。かつて右大将家(源頼朝公)が朝敵を征伐して関東に武家政権を草創された。以来官位や俸禄について、山より高く海よりも深い恩義を受けたはずだ。よもや忘れなどまいの……時に上皇陛下は逆臣にそそのかされてスジ違いの綸旨を下されたが、坂東武者の名誉を忘れぬ者は一刻も早く藤原秀康(演:星智也)と三浦胤義(演:岸田タツヤ)らを討ち取り、源家三代の遺業をまっとうせよ。ただしそれでも院にお味方せんと申す者は、今すぐこの場で申し出て、この尼を斬り殺してゆけ!」と。

これを聞いた御家人たちは感涙にむせぶあまり、まともに返事も出来なかったといいます。むさ苦しい坂東武者たちが所狭しと密集しかつ号泣するさまは、さぞや凄まじい眺めだったことでしょう。

いざ合戦と決まれば早速軍議を開くのですが、それは又にして次は『承久軍物語』バージョンを見てみましょう。

一方、『承久軍物語』バージョンでは?

……去程に。御一門を初めとして。その名きこふる侍ひたちを二位どのヽ御まへにめして。今度の御大事のいけんをとはる。覺阿善信ら申ていはく。いかさまにも武士どもを差登せられ。官軍をせめほろぼさんにはしかじと申せば。二位殿も然るべしと領承し給。いかに侍どもたしかにきけ。日本國の侍は。むかしは三とせの大番とて。帝都を守護する事。一ごの大じと思ひ。家のこ郎等まで。はれらかに出たちてのぼるといへども。三とせの在京にちからつき。國にくだる時は。かちはだしにて歸しを。故う大しやう殿これをあはれませ給ひ。三とせを六月につゞめ。分に従ひ人のたつせるやうにしはいし給へば。よろこぶ事限なし。かヽる御なさけ深きお心ざしをも忘れまいらせ。こんど京がたの御かた仕らんか。又関東に。御奉公仕らんか。只今たしかに申きれと。のたまひしかば。これをうけ給はる大名小名。みなヽヽ涙を流して申けるは。心なき鳥類畜類までも、人の恩を感ぜずといふことなし。ましていはんや。人間の身として。代々厚恩をいたゞき。あに木石におなじからんや。一めいをばまいらせをくうへは。力の及ばん程は。責戦ひ。かたきのぢんを枕として。打死せんより外の事候はずと……。

※『承久軍物語』より

結論から言うと政子は演説をしておらず、大江広元(演:栗原英雄。出家して覺阿)と三善康信(演:小林隆。出家して善信)が政子の了承を得て熱弁を奮っています。

往時を思い出し、熱弁を奮う大江広元。ただしこの時点では出家している

「侍ども、確かに聞け。かつて日本国の侍は京都大番役の務めを課せられておった。畏れ多くも帝都をお守りできる誇りを胸に、一族郎党みな晴れがましく上洛したが、三年の務めを果たした後はボロボロになって帰ったものじゃ。馬は売ったか食ったか歩きで、草履もすり切れて裸足で、それはもう惨めな姿じゃった。それを憐れまれたのが、我らが鎌倉殿じゃ。右大将家(源頼朝公)は大番役の任期を三年から半年に短縮され、無理なく務めを果たせるよう取り計らって下さり、みな歓喜に沸き立ったものじゃ」

頼朝公の死から早20年が経っており、かつて京都大番役をはじめ各種の苦役が課せられ、犬馬の如く引き働かされたことなど体験していない世代が増えてきていたのです。

武士は地下人(ぢげにん)などと呼び蔑まれ、公家たちの家畜同然に扱われた記憶が残っている者は、当時を思い出して悔し涙を堪えたことでしょう。

「……しかし歳月は流れてそんなことも知らず、鎌倉殿の深き御恩を当たり前のことと思い上がっておる者は、此度の戦さで京方へ味方するのか。それとも坂東武者の誇りを守るため、鎌倉へご奉公するのか。今すぐこの場でハッキリ申せ!」

こうまで言われて「ハイ朝廷にお味方します」と言える坂東武者はいないでしょう。

「鳥や獣たちだって、人間が愛情をかければその恩を感じないことはない。まして人間の、しかも代々にわたり厚き御恩をいただいた我らが、木石と同じ(恩義を感じない)ということがあるはずもない。一命を賭して全力で戦い、異郷の地に討死を辞さぬことこそ、ただ一つの答えだ!」

こうして坂東武者たちの心は一つになり、いざ決戦に臨むのでした。

慈光寺本『承久記』に見る御家人たちの本音?

……とは言うものの、いくら感激したところで、それだけで勝てるものではありません。

東山道から攻め上る大将となった武田信光(たけだ のぶみつ。武田信義の子)。同じく大将を務める従兄弟の小笠原長清(おがさわら ながきよ)とこんなやりとりをしていました。

……如何有ベキ武田殿。武田返事セラレケルハ、ヤ給ヘ小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方に付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ。小笠原殿トゾ申サレケル。去程ニ、相模守御文カキ、武田・小笠原殿、大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇國ヲ奉ラント書テ、飛脚ヲゾ付給フ。彼両人是ヲ見テ、サラバ渡セトテ、武田ハ河合を渡シ、小笠原ハ大井戸ヲ渡シケリ……

※慈光寺本『承久記』巻下より

小笠原「どうする、武田殿?」

武田信光。歌川豊国筆

武田「決まっておる。鎌倉が勝てば鎌倉に味方し、官軍が勝てば官軍に味方する。それが弓箭(弓矢)とる武士の常識であろうが」

やっぱりね。と言ったところでしょうが、そんな利に敏(さと)い東国武者を手懐けるため、北条時房(演:瀬戸康史)が手を打ちます。

時房(書状にて)「ご両名へ。此度の戦さで武功を立てられましたら、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野の六ヶ国を恩賞として約束しましょう!」

武田・小笠原「「よっしゃ、やるぞ!」」

実にちゃっかりと奮起した両将はたちまち敵を突破、大いに武勲を立てたということです。

終わりに

とまぁこんな具合に御家人たちの活躍をもって見事に勝利を収めた承久の乱。どんな名演説よりも利益で釣るのが一番効果的、という身もふたもない話でした(それだけではありませんが)。

『承久記絵巻』より、弟・胤義から朝廷に味方するよう誘われた書状を義時に差し出し、鎌倉への忠義を示す義村。

でも、利益だけで釣ろうとしても釣れなかった三浦義村(演:山本耕史)の例もありますし、そんなところに東国武者の意地が感じられますね。

たぶん大河ドラマでは政子が自らの言葉で語るのでしょうが、今から楽しみですね!

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月 塙保己一 編『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社、1894年5月 矢野太郎 編『国史叢書 承久記』国史研究会、1917年6月

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