承久の乱で言及される「九郎判官」とは何者?角田太郎胤親のエピソード【鎌倉殿の13人】

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承久の乱で言及される「九郎判官」とは何者?角田太郎胤親のエピソード【鎌倉殿の13人】

時は承久3年(1221年)6月14日。鎌倉より上洛した北条泰時(演:坂口健太郎)の軍勢は、宇治川に布陣する官軍の三浦胤義(演:岸田タツヤ)・藤原秀康(演:星智也)らの軍勢へ攻めかかりました。

宇治川の防衛線を突破して敵を撃破した泰時たち。6月15日には胤義らが自害、秀康も逐電して「承久の乱」を制します。

6月18日には御家人たちの武功が記録され、名誉を末代まで残そうと歓喜に沸き立つ様子が『吾妻鏡』に書かれていました。

今回はそんな一人・角田太郎(すみだ/すだ/つのだ たろう)こと角田胤親(たねちか)をピックアップ。果たして彼は、どんな武功を立てたのでしょうか?

上総介・平忠常の子孫

角田太郎胤親は生年不詳、上総介広常(演:佐藤浩市)の甥孫として誕生しました。

父親は相馬介貞常(そうまのすけ さだつね。後に上総介)。相模国愛甲郡角田邑(現:神奈川県愛甲郡愛川町角田)に所領を得たことにより、地名を苗字に名乗ります。

角田

1桓武平氏上総氏族 相模国愛甲郡角田邑より起り、上総介忠常の後也と云ふ。平群系図等に見ゆ。

※太田亮『姓氏家系大辞典 第四巻 タケ-ニワカ』より

現在、愛川町角田の地名は「すみだ」と読みまが、ここでは「つのだ」として言及。また上総介忠常(かずさのすけ ただつね)とは新皇・平将門(たいらの まさかど)の孫で、房総半島で叛乱を起こしました。

坂東に覇を唱えた新皇・平将門。月岡芳年筆

【角田祖先系図】
……桓武天皇―葛原親王―平高望(高望王)―平良文(村岡五郎)―平忠頼(村岡次郎)ー平忠常(上総介)―平常将―平常長―平常晴―上総介常澄-相馬九郎常清-相馬介(上総介)貞常-角田太郎胤親……

※中条家文書「桓武平氏諸流系図」

元服して通称は太郎。諱は親常(ちかつね)と言いましたが、後に千葉介常胤(演:岡本信人)の孫娘(父は千葉介胤正)を娶ったことで胤親と改名しました。

これは義祖父・常胤と頭文字がかぶってしまうことを遠慮したのだと考えられます。

美六と美八の仕えた「九郎判官」とは?

さて、そんな角田太郎は承久の乱で奮戦し、みごとに武功を立てました。

……六月十四日宇治合戰討敵人々……角田太郎〔一人手討九郎判官郎等美六美八〕……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月18日条

【意訳】6月14日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々(中略)。
角田太郎、手討ち1名。ほか九郎判官の郎党である美六(びろく)と美八(びはち)。

(あるいは九郎判官の郎党である美六美八という人物のみ1名の戦果と解釈できなくもありません)

手討ちとは自分の手で(もちろん刀を用いて)敵の首級を挙げたこと。ほか2名については矢で射殺したか、あるいは首級を挙げずに打ち捨てたのでしょう。

美六・美八とは恐らく美男の六郎、同じく八郎の意味(二つ名)と考えられます。よほどハンサムだったのでしょうね。

「九郎判官」と言えば、お馴染み源義経。死後30年以上にわたって、郎党たちが鎌倉への復讐を狙った?(イメージ)

ところで、この九郎判官(くろうほうがん)とは誰でしょうか。そう聞いてパッと連想するのは源義経(演:菅田将暉)。主君が滅ぼされた後、その残党である兄弟が鎌倉幕府に復讐しようと官軍に与した……のかも知れません。

しかし、義経が滅んだ文治5年(1189年)から30年以上が経過しており、当時の生き残りであればかなり老齢のはず。

ここで言う九郎判官とは三浦胤義と考えられます。彼も通称は九郎(平九郎)、検非違使(判官)に任じられていたため義経と同じく九郎判官です。

承久の乱における中心人物であり、義経より当事者性が高いことから、より説得力が感じられます。

義経は源(みなもとの)九郎判官、胤義は平(たいらの)九郎判官。こういう共通点(九郎判官)と違い(源・平)が面白いですね。

終わりに

かくして宇治川の武功が記録された角田太郎。ちなみに『承久記』には共に出陣した角田弥平次(やへいじ)という者が記されており、こちらは特に武功を立てたとも討死したとも言及がありません。無事だといいのですが……。

宇治川合戦。有力御家人だけでなく、みんなが力を合わせて勝利をつかんだ。『承久記絵巻』より

承久の乱に登場した九郎判官。その郎党を討ち取った角田太郎胤親のエピソードを紹介しました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では名前も出ないでしょうが、承久の乱における御家人一人々々の活躍を少しでも見届けていきたいものです。

※参考文献:

太田亮『姓氏家系大辞典 第四巻 タケ-ニワカ』国民社、1944年3月 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月 野口実「上総千葉氏の族的位置と丹後守護補任の背景について」

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