江戸時代の大名を束縛した「武家諸法度」とは?その内容と効果を改めて確認

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江戸時代の大名を束縛した「武家諸法度」とは?その内容と効果を改めて確認

「武家諸法度」を抜きに江戸時代は語れない

国立国会図書館デジタルコレクションより

日本史の法制史などを調べていると、よく登場するのが武家諸法度。江戸時代には、これに基づいて大名が改易されたりしており、かなり重要なルールだったことが分かります。

このルールがなぜ制定されたのか、そして当時の社会にどのような影響を与えたのかを見ていきましょう。

武家諸法度は、江戸幕府が全国の大名を対象に発布した法令のことで、制定された元号(西暦では1615年7月7日)に合わせて元和令と呼ばれたりもします。

発布したのは二代将軍の徳川秀忠でしたが、もともと制定を命じたのは徳川家康でした。さらに言えば、法令を作るにあたり、以心崇伝という臨済宗の僧侶も関わっていたと言われています。

駿府城公園の徳川家康像

家康、祟伝ともに、戦国時代を生き抜いてきた人たちです。そのことを踏まえて考えると、武家諸法度というのはいたずらに大名を束縛するためのルールではなく、地獄のような乱世を太平の世にするためにはどうすればいいか、という主題に貫かれていることが想像できるでしょう。

実際、そこに書かれているのは、諸藩の大名が文武両道に励み、酒や欲に溺れず良い政治を行うための基本的なきまりや心得などです。

しかし一方で武家諸法度には、豊臣政権の影響を払拭して江戸幕府が統率するために、諸藩の大名の力を弱めるという目的もありました。では、具体的にどのような形でそれは行われたのでしょうか。

力を削がれる大名たち

もっとも有名なのは、三代将軍・家光が発布した「寛永令」で明文化された参勤交代です。

妻子はお江戸で人質に!?江戸時代の「参勤交代」って実際はどんなものだったの?

参勤交代は地方の大名を一年おきに江戸に出仕させる制度で、移動や江戸滞在にかかる費用はすべて各藩が賄わなければなりませんでした。こうして金銭的に大きな負担を負わせることで、諸藩の経済力を削ろうとしたのです。

参勤交代で使われた岡山県の矢掛本陣

また、大名の正室や嫡子は江戸の屋敷に住むことになりました。これは人質のようなものだったと言われています。

他にも、婚姻の際には幕府の許可が必要になりましたし、城や船を新しく造るのは禁止。また、城の修繕にも逐一届け出が必要になりました。

これらに違反すると領地を没収される「減封」や領地を違う場所に移される「転封」、武士の身分を剥奪され取り潰される「改易」などの罰則を受けることになります。

多くの大名は幕府に従いましたが、中には言いがかりや濡れ衣に近い形でこれらの処罰された大名もいました。福島正則はその好例と言えるでしょう。

広島城本丸。福島正則はこの城の改修について言いがかりをつけられ改易となった

このように、武家諸法度によって大名たちは強く束縛されることになりました。ただ、それらのルールの中には社会のために有益なものもありました。

例えば、四代将軍・家綱が制定した「寛文令」では「殉死」が禁じられています。これはどういうことでしょうか。

文治政治と秩序維持

当時は、領主が討たれたら家族や家臣もそれを追って死ぬ「殉死」が当たり前のように行われていました。しかしそれでは有能な人材をいたずらに失うことになるため、禁止されたのです。

また、幕府は島原の乱のような大きな反乱をこれ以上起こさないように、武力で抑える政治から学問で治める文治政治を目指すようになっていきました。

天草キリシタン館「城山公園キリシタン墓地」

そのため、五代将軍・綱吉の頃には、大名家でも末期養子が認められるようになりました。これによって後継のいない大名が死の直前に養子をとれるようになり、家の取り潰しを回避できるようになりました。

大名家が取り潰されると浪人が増加し、町の犯罪が増えます。それを防ぐ狙いがあったと言われています。

理不尽なルールも存在した武家諸法度ですが、時代と共に見直しも行われました。260年もの長い間江戸幕府が続いた理由のひとつには、武家諸法度の存在があったのかもしれません。

参考資料
刀剣ワールド
はぐくむ

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