鎌倉幕府三代執権・北条泰時の菩提寺の裏「粟船山」に伝わる悲しい伝説

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鎌倉幕府三代執権・北条泰時の菩提寺の裏「粟船山」に伝わる悲しい伝説

先回ご紹介した常楽寺の裏にある粟船山には、木曽義仲の息子・木曽義高のものといわれている塚があります。

前回の記事

俺たちの泰時の面影が今も残る…鎌倉幕府三代執権・北条泰時の菩提寺「常楽寺」に行ってみた

元は常楽寺の数百メートルほど西南の田んぼの中にあり、里人は“木曽免(きそめん)”とよび、義高の塚だと伝えてきました。

木曽義高は、11歳から、鎌倉の源頼朝の元で父・義仲の人質として過ごしていましたが、源頼朝と政子の娘の大姫と将来を約束された関係になっていました。ところが、父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化します。ある春の日、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとします。

義高と同い年の側近で、いつも双六の相手をしていた海野 幸氏(うんの ゆきうじ)が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜け、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する計画を立てていました。

ところが、夜になって、計画が露見、激怒した頼朝が、幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じました。

義高は必死に逃亡しましたが、武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄によって討たれた。享年12歳と伝えられています。

水戸藩主・徳川光圀によって編纂された『新編鎌倉志』には、常楽寺図が記されていますが、そこにも“木曽塚”が描かれています。

鎌倉での首実検の後ここに葬られ、江戸時代に村人が塚を掘り出して今の所に移したようです。塚の中に青磁の瓶があって枯れた骨が泥に交っていたのを洗い清めて塚を立てたといわれています。

塚に向かう道中には、北条泰時の娘で、三浦泰平の妻の宮姫のものといわれる石の祠もあります。

建長寺が建てられると、住持は常楽寺の住職も兼ねることになり、「常楽は建長の根本なり」として、篤く取り扱われました。

静かでこぢんまりとした寺院の境内には、人の世の悲しみが込められた壮大なドラマが、今も眠っているのです。

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