なぜ御徒町は「宝石の街」なのか?その成立過程と歴史的背景をさぐる

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なぜ御徒町は「宝石の街」なのか?その成立過程と歴史的背景をさぐる

御徒町イコール「宝石の街」

東京・御徒町(おかちまち)。問屋街として有名なこの街は、加工技術を持った職人が集まる場所でもあり、「宝石の街」としても有名です。しかしなぜ「宝石」なのでしょう?

御徒町の宝飾問屋街・ルビーストリート

御徒町付近には上野寛永寺浅草寺など、神社仏閣が多く存在します。江戸時代まで、御徒町の職人たちは持ち前の加工技術で寺社仏閣の華やかさを支えていました。

近くには色街もあって、かんざしや帯留めなどの装飾品を作る職人も御徒町に集まります。

カラフルなかんざし

明治時代になると海外の装飾文化が日本に入ります。そうして御徒町にも指輪を取り扱う業者が増えたことで、西欧的なジュエリーのイメージがだんだんと定着していきました。

さらに第二次世界大戦後、米軍の兵士たちが貴金属を売る青空マーケットの中心となったのが上野や御徒町でした。そしてジュエリーや貴金属の販売や修理を生業とする店が次々と立ち並び、宝石の街としての地位を確立します。

このように、御徒町は一朝一夕に現代のような形になったのではなく、それぞれの時代の変化を受けながら、少しずつ「宝石の街」として成り立っていったのです。

日本の宝石の歴史

ここで少し日本の装飾品の歴史について見てみましょう。

明治時代になるまで指輪やネックレスなど、ジュエリーというものは日本にはなかったのでしょうか?

実はそうではなくて、なんと縄文時代から指輪やネックレス、ブレスレットなどのジュエリーは日本にも存在していました。特に縄文時代から古墳時代の遺跡でよく出土しています。

現在でもパワーストーンとして注目される勾玉

しかし、その後の時代から幕末あたりまでは出土例や残存例が少ないこともあり、日本の宝飾品の歴史について注目されることはあまり多くありません。

その理由は日本人の衣服である着物にあると考えられています。着物は生地そのものに特別な染色や絵付けが施されてるものが多いため、着物自体が美しく、指輪などの装飾品を必要としなかったのです。

しかしそれで宝石を扱う技術が衰退したわけではなく、神仏の世界に宝石の装飾は欠かせないものでしたし、先に書いた通り花街ができれば帯留めやかんざしが必要とされましたし、武士の時代でも刀や武具には宝石が使われていました。ただ、指輪やネックレスのような西欧的な華やかさとは趣が違っていたと言えるでしょう。

こうして、日本でも宝石の加工技術は日々進化し、御徒町を初めとする日本中のさまざまな街の職人によって現代に受け継がれていきました。

御徒町という町の歴史を考えていくとき、このような歴史的背景も見逃せません。

現在の御徒町

現在の御徒町には、ダイヤモンドアベニューやサファイヤストリート、エメラルドアベニュー、ルビーストリート、ひすいアベニューというふうに宝石の名前が付いている通りが存在します。

ジュエリー職人の他に目利きの鑑定士も多く集まっていて、宝石を買いたい人だけでなく、大切な宝石を適切な価値で売りたいという人にも人気の街です。

また海外の旅行客からも注目されており、観光スポットとしての人気も高まっています。歴史ある街が一体となって、「宝石の街」を盛り上げているのです。

参考資料

福岡宝石市場 Plus ジュエリーマルシェ ジュエリータウンおかちまち(JTO)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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