悪逆非道のイメージが強い古代日本の大物政治家・蘇我馬子(そがのうまこ)の活躍と実績

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悪逆非道のイメージが強い古代日本の大物政治家・蘇我馬子(そがのうまこ)の活躍と実績

古代日本最大の豪族

最近、歴史作家の伊東潤『覇王の神殿(こうどの)』という、かの蘇我馬子(そがのうまこ)を主人公とした小説を書いています。推古天皇や聖徳太子などのキャラクター描写も秀逸で、読み始めたら止まらない面白さです。

さて、古代史の研究も進み、かつてと比べて、この蘇我馬子という人の人物像もどんどん明らかになっています。

斑鳩寺蔵『聖徳太子勝鬘経講讃図』の蘇我馬子(Wikipediaより)

蘇我一族は代々天皇を補佐する役職である「大臣(おおおみ)」を務める豪族でした。特に蘇我馬子の政治手腕は大したもので、彼の代で蘇我一族は強大な権力を得ました。

彼によって、蘇我一族は四代・50年の長きに渡って政界を支配する道筋を得たと言えます。

一方で、蘇我馬子は政争や暗殺に関わった悪逆非道なイメージがつきまとっています。有名なものに、587年の9月に起きた丁未の乱があります。この戦いでは、ライバルだった物部守屋が討たれました。

物部氏は、蘇我氏と同様に天皇を補佐していた豪族です。物部守屋は日本古来の神々を信仰しており、当時、大陸から伝来してきたばかりだった仏教を排除しようとしていました。

その排除の手段というのが、馬子が建立に関わった寺を焼いて仏像を破棄するというもので、事あるごとに守屋と馬子は対立していたようです。

馬子はと言えば、当時の世界の最先端の学問だった仏教を日本に広めたいと思っていたのです。

日本に現存する最古の仏像・飛鳥大仏

屍を踏み越えて

さて、ちょうどその頃に即位していた用明天皇は仏教を受容しようとしていたので、守屋は権力を握るために穴穂部皇子を立てて次の天皇として即位させようと目論みます。

これがきっかけで守屋と馬子は武力衝突し、馬子は穴穂部皇子を殺害。守屋も戦いで討たれ、蘇我陣営の勝利となりました。

その後、馬子の甥にあたる崇峻天皇が即位しますが、実際には馬子が全ての権力を握っており、天皇は不満を抱きます。こうして二人の仲は険悪になり、結局彼も馬子によって暗殺されました。

崇峻天皇が被葬されたとも言われている藤ノ木古墳

崇峻天皇の崩御により、日本初の女性天皇である推古天皇が即位します。

彼女のもとで、馬子は聖徳太子(厩戸皇子)と協力して、天皇を中心とする国づくりを進めていきました。

聖徳太子から見て馬子は大おじにあたります。また、彼の妻は馬子の娘だったので、婿と舅の関係でもありました。

政治家としての手腕

この頃の馬子は政治の補佐役に徹していました。教科書では聖徳太子が成立させたと言われている十七条の憲法冠位十二階の制定も、実際には馬子の存在が不可欠だったと言われています。

聖徳太子が逝去すると、馬子はまたしても政治の実権を握ります。

しかしその後わずか4年で馬子も倒れ、彼の大志は孫の蘇我入鹿などに引き継がれてゆくことになります。

奈良・明日香村の飛鳥寺

馬子は仏教を広めることに注力していました。その最たるものが飛鳥寺の建立です。

飛鳥寺の建立には大陸から呼ばれた技術者が多く携わっていて、瓦の製造技術や塔の建築方法など、日本の建築技術もここで大きく発展します。

政敵との争いや暗殺のイメージが強い馬子ですが、長い期間政界の中心に居続け、蘇我一族の最盛期を築き上げたその政治手腕は確かなものでした。

また当時の最先端の学問である仏教に目を付ける先見性など、学ぶべきところも多いです。

蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳

参考資料
はぐくむ
歴史上の人物.com

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