北条義時の隠し子?それとも…『吾妻鏡』には登場しない3人の息子たち【鎌倉殿の13人 外伝】

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北条義時の隠し子?それとも…『吾妻鏡』には登場しない3人の息子たち【鎌倉殿の13人 外伝】

北条義時(ほうじょう よしとき)の息子と言えば「俺たちの泰時」こと北条泰時(やすとき)はじめ、6人いたと伝わります。

長男・北条泰時
次男・北条朝時(ともとき)
三男・北条重時(しげとき)
四男・北条有時(ありとき)
五男・北条政村(まさむら)
六男・北条実義(さねよし。後に実泰)

彼らの存在は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』で確認できますが、義時にはもう3人息子がいたとか。

「父上、お呼びでしょうか」さて、彼は誰だろうか

北条時経(ときつね)
北条尚村(なおむら/ひさむら)
北条時尚(ときなお/ときひさ)

江戸幕末期の系図集『系図纂要』によるもの。かつ事績についても記録されていないため、実在性については疑問視されるものの、まったく事実無根の創作でもないはず。

そこで今回は、この影の薄い3人の息子たちについて可能な限り考察していきましょう。

複雑な兄弟関係

『系図纂要』によると、兄弟の並び順は以下の通りです。

泰時(太郎)・朝時(次郎)・重時(三郎)・政村(四郎)・【時経(小四郎)】・【尚村(七郎)】・実泰(五郎)・有時(六郎)・【時尚(九郎)

※カッコ内は通称。【】は今回言及する3人。

先(正治2・1200年)に生まれている有時が、後(元久2・1205年)生まれの政村より上(兄扱い)なのは、母親の身分によって元服順が前後したため(有時の母は側室、政村の母は正室)。

当時は先に生まれたから兄とは限らず、元服した順番で序列が逆転することもままありました。だから有時の通称は六郎、政村の通称は四郎です(ちなみに五郎は実泰)。

これを踏まえて、残り3人の息子たちについて考察していきましょう。

※他の兄弟たちについてはこちら

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この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:後編

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北条時経

生没年不詳
母親:不明(伊賀局か)
通称:小四郎

『系図纂要』によると情報はこれだけ(通称のみ)。四郎政村のすぐ下だから小四郎なのでしょうか。もしかしたら政村とほぼ同時期に元服したから四郎・小四郎と割り振ったのかも知れませんね。

四郎および小四郎の通称は北条時政(ときまさ)以前から先祖代々受け継いできたもの(≒嫡流の証?)なので、小四郎も恐らく側室の子ではない=母親は政村と同じ伊賀局(伊賀氏、伊賀方)と考えられます。

北条「四郎」時政。歌川豊国「曽我ものがたり」

【北条氏略系図】

……時方(北条四郎)―時家(北条四郎大夫)―時政(北条四郎大夫)―義時(江間小四郎)―政村(相模四郎)・時経(小四郎)

※『系図纂要』より

しかし、そうだとすると『吾妻鏡』に書かれていないのは不自然ではないでしょうか。

天晴。今日入夜。相州鍾愛若公〔九才。當腹〕於御所元服之儀。三浦左衛門尉義村爲加冠也。号四郎政村云々。

【意訳】晴れ。夜になって義時が特に可愛がっている若君(9歳、正室の子)が御所で元服された。烏帽子親は三浦義村(みうら よしむら)、名を北条四郎政村としたそうな。

※『吾妻鏡』建保元年(1213年)12月28日条

もしかしたら、時経は義時からあまり可愛がられておらず、ひっそりと元服したのかも知れません。時は北条一族の通字、経の字は誰からもらったのでしょうね。

北条尚村

生没年不詳
母親:不明(有時とは別の側室か)
通称:七郎

時経のすぐ下の弟。こちらも情報は通称(七郎)のみ。六郎有時よりも後に元服したけど系図の序列は上。さらに五郎実泰よりも先に書かれていると言うことは、有時とは別の側室(※)が生んだ可能性が高そうです。

(※)正室よりは格下ながら、一定の配慮を要する関係だったと思われます。

末弟の時尚と「尚」の字が同じためか、両者が同一人物であるとする説も(ただし『系図纂要』では別々に記載)。

村の字は、やはり三浦義村が烏帽子親なのでしょうか。もしそうなら、北条と三浦の深い関係がうかがい知れますね。また尚の字は誰からもらったのか気になります。

北条時尚

北条時尚。尚村と同一人物か(イメージ)

生没年不詳
母親:不明(おそらく側室。尚村と同母か)
通称:九郎

『系図纂要』で確認できる限り北条兄弟の末っ子。九番目だから九郎。シンプルな反面、考察の手がかりもほとんどありません。

尚の字が誰からもらったのかが判れば、仮説ながらもう少し深堀りできそうですが……。

終わりに

以上、『吾妻鏡』に登場しない義時の息子3人について考察してきました。名前(諱)と通称、系図の序列だけしか手がかりがないものの、今後の史料研究による解明が俟たれます。

実際のところは、義時にしか分からない(イメージ)

北条時経(小四郎)……生没年および事績は不明。母親は伊賀局か。
北条尚村(七郎)………生没年および事績は不明。母親は側室(有時生母と別)か。
北条時尚(九郎)………生没年および事績は不明。尚村とは同母兄弟?同一人物説も。

こういう事を調べていると、中には「そんな名前しか載っていない人物を知っても意味がない」というご意見をいただく事もしばしば。

しかし、長い歴史の中で駆逐淘汰されていった者も多い中、名前だけでも残ったというのは貴重なことではないでしょうか。

せっかく残った名前を可能な限り記録して、その実像に迫ることで、単なる記録に血を通わせてあげたいものです。

※参考文献:

『系図纂要 五十 平氏 五』国立公文書館デジタルアーカイブ 北条氏研究会『鎌倉北条氏人名辞典』勉誠出版、2019年10月

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