正月とは日本人が死生観を意識し、最も神仏と近づく日である (2/2ページ)

心に残る家族葬

ここで言われる歳神は「天照大神」や「大国主命」といった、神話に基づくはっきりした人格、性格を持つ具体的な神々ではない。歳神の性質を考えると、正月が「神道」として確立される以前からの日本古来の宗教行為であることがわかる。

■死と無常を超えて

一休宗純(1394〜1481)は正月に人間の髑髏を刺した竹竿を持って練り歩いたという。歳神さまを迎える門松も一休に言わせれば新年を迎えることは、年を重ねることで、死にまた一歩近づいた一里塚(目印)ということになる。一休は新年に浮かれる庶民に仏教の立場から世の無常を説いた。ゾロアスター教では生まれたばかりの赤ちゃんが泣くのは、やがて死ぬことを悲しんでいるのだと伝えられている。生まれれば必ず死ぬのだからその通りではあるが、一休もゾロアスターも中々にシビアである。しかし一休の皮肉も日本人の心に浸透はしなかった。彼の逸話は今や知る人ぞ知るが、日本人にとって新年とはやはり歳神様を迎える祝い事である。歳神は穀物の死と再生を意味するともいう。私たちが死んだその先は、歳神様となって家を守る役目が待っている。死をケガレとして嫌う神道の祭祀として根付いている正月は、世は無常でなく死後のこれからも祖先と子孫の歴史が紡がれていくことを教えてくれる日でもある。

■神仏に近づく日

現代は門松も鏡餅もその謂れを知っている人の方が少ないだろう。初詣に訪れる人たちも手を合わせるその先に何が鎮座しているのか理解しているのか怪しいものである。寺と神社と違いを説明できる人の数も思ったより多くないかもしれない。そんな現代の日本人は無宗教無信仰と言われ、今どきは葬儀にしろ結婚式にしろ無宗教の形式を取ることが多い。そうした時代にあっても、本来神事である正月は私たちが最も神仏と近づく日であるといえる。真摯に手を合わせたい。

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