千利休が切腹させられたのはなぜ?政治利用された「茶の湯」と謎の処刑理由 (2/3ページ)

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さらに信長は、堺とのつながりを強固にするため、利休を茶頭(茶の湯を司る役職)として召し抱えます。

信長は、茶道を政策の道具として利用するつもりでした。臣下に茶の湯を奨励し、許可した家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶器を与えるなどして御茶湯御政道と呼ばれる政策を行います。

その中で、利休は茶の湯の指南役として一目を置かれるようになり、信長の信頼を勝ち取っていきました。

しかし天正10(1582)年に本能寺の変が起こり、次の天下人となったのは豊臣秀吉でした。彼も、信長と同様に茶の湯を政策の道具として利用していきます。

利休は秀吉からも重用され、黄金の茶室の設計や北野大茶湯のプロデュースなども任されるようになりました。彼が「利休」を名乗るようになったのもこの時期です。

この頃の利休は、すでに大変な権力を持っていました。この時代の茶道はただの道楽ではなく政治と密接に関わっており、彼の元には諸国の大名や権力者が集まり、弟子入りしています。

こうして、諸国の情報が利休の元に集まるようになっていったのです。

豊臣秀吉との確執の原因は?

しかし、当の利休は、この頃から茶道に芸術性を求めるようになりました。茶の湯イコール「政策・権力」だった秀吉とは価値観が異なっていき、二人の意見は合わなくなっていきます。

彼らの間を取り持っていた豊臣秀長が天正19(1591)年に病死すると、その関係は一気に悪化。秀吉の側近による讒言や、利休が朝鮮出兵に反対したことも大きく影響したとされています。

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