北条時政・義時・泰時の後は?鎌倉幕府の歴代執権17代を一挙紹介!【鎌倉殿の13人】
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人(令和4・2022年)」。ついに終わってしまいましたね。
伊豆の片田舎に住んでいた土豪の小倅・北条義時(ほうじょう よしとき)が、鎌倉幕府の執権として武士の世を切り拓いた親子三代の物語。これを機に、さぞ北条ファンが増えた事でしょう。きっとそのはずです。
さて、義時の死後に北条泰時(やすとき)が執権の座を継いだことは有名ですが、その後についてはどうでしょうか。ちょっと気の利いた方なら、鎌倉幕府の滅亡時(元弘3・1333年)にいた北条高時(たかとき)という名前をご存じかも知れません。彼も執権の一人でした。
でも、その間はちょっと記憶がおぼろげ……元寇の時に第8代・北条時宗(ときむね)が活躍したのは歴史教科書で見たような……等といった方は多いのではないでしょうか。
そこで今回は初代・北条時政(ときまさ)から最後の第17代・北条貞将(さだゆき)まで、鎌倉幕府の歴代執権を一挙紹介。大河ドラマは終わっても、鎌倉時代の面白さは終わりません。彼らのプロフィールと共に、歴史をたどっていきましょう。
初代・北条時政初代執権・北条時政。歌川芳虎「大日本六十余将 伊豆 北條相摸守時政」
生没:保延4年(1138年)生~建保3年(1215年)没(78歳)
在職:建仁3年(1203年)9月~元久2年(1205年)閏7月(1年11ヶ月)
官位:従五位下/遠江守
将軍:源頼朝(初代)・源頼家(第2代)・源実朝(第3代)
【義時との関係】父
【主な事績】初代鎌倉殿・源頼朝(みなもとの よりとも)の舅として、平氏討伐の挙兵に従軍。頼朝の死後、政敵たちを粛清して御家人のトップに上り詰める。しかし謀反の疑いにより、頼朝未亡人の政子(まさこ)と義時に追放された。
第2代・北条義時生没:長寛元年(1163年)生~元仁元年(1224年)没(62歳)
在職:元久2年(1205年)閏7月~貞応3年(1224年)6月(18年11ヶ月)
官位:従四位下/右京権大夫
将軍:源頼朝(初代)・源頼家(第2代)・源実朝(第3代)・藤原頼経(第4代)
【主な事績】父・時政を追放して執権になり、姉・政子と共に鎌倉幕政を主導した。これを快く思わない後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)から追討の院宣を下されるが、一戦交えて勝利を収める(承久の乱)。
第3代・北条泰時生没:寿永2年(1183年)生~仁治3年(1242年)没(60歳)
在職:貞応3年(1224年)6月~仁治3年(1242年)6月(18年)
官位:正四位下/左京権大夫
将軍:源頼朝(初代)・源頼家(第2代)・源実朝(第3代)・藤原頼経(第4代)
【義時との関係】庶長子(側室が生んだ長男)
【主な事績】承久の乱で総大将を務め、義時の跡を継いで執権に。叔父・北条時房(ときふさ)と共に評定衆(合議制)を新設、御家人らの基本法となる御成敗式目(貞永式目)を定めるなど社会の安定化に尽力した。
第4代・北条経時(つねとき)生没:元仁元年(1224年)生~寛元4年(1246年)没(23歳)
在職:仁治3年(1242年)6月~寛元4年(1246年)3月(3年9ヶ月)
官位:正五位下/武蔵守
将軍:藤原頼経(第4代)・藤原頼嗣(第5代)
【義時との関係】曾孫(泰時の孫)
【主な事績】父・北条時氏(ときうじ。泰時嫡男)が既に亡かったため執権に。訴訟制度の改革などに取り組むが、将軍・藤原頼経(ふじわらの よりつね)はじめ反執権派と対立する中で夭折。
第5代・北条時頼(ときより)生没:嘉禄3年(1227年)生~弘長3年(1263年)没(37歳)
在職:寛元4年(1246年)3月~康元元年(1256年)11月(10年8ヶ月)
官位:正五位下/相模守
将軍:藤原頼嗣(第5代)・宗尊親王(第6代)
【義時との関係】曾孫(経時の弟)
【主な事績】急死した兄の後を継いで執権に。反執権派によるクーデターを未然に防ぎ(宮騒動)、大御所・頼経を京都へ追放。頼経の鎌倉復帰を狙う三浦一族との最終決戦(宝治合戦)を制し、北条の勢力基盤を盤石にする。
第6代・北条長時(ながとき)生没:寛喜2年(1230年)生~文永元年(1264年)没(35歳)
在職:康元元年(1256年)11月~文永元年(1264年)7月(7年7ヶ月)
官位:従五位上/武蔵守
将軍:宗尊親王(第6代)
【義時との関係】孫(義時三男・北条重時の子)
【主な事績】時頼の引退に際し、その嫡男・北条時宗が成人するまでの中継ぎとして執権就任。初めて泰時子孫以外から抜擢されたが、激務のため身体を壊して辞職。
第7代・北条政村(まさむら)生没:元久2年(1205年)生~文永10年(1273年)没(69歳)
在職:文永元年(1264年)8月~文永5年(1268年)3月(3年7ヶ月)
官位:正四位下/左京権大夫
将軍:宗尊親王(第6代)・惟康親王(第7代)
【義時との関係】嫡男(後室・伊賀氏の子)
【主な事績】義時死後、泰時との後継者争いに敗れるが不問に処される(伊賀氏の変)。その後は幕府の重鎮として活躍、時宗が成人するまでの中継ぎとして義時の死から40年越しで執権に。
第8代・北条時宗(ときむね)生没:建長3年(1251年)生~弘安7年(1284年)没(34歳)
在職:文永5年(1268年)3月~弘安7年(1284年)4月(16年1ヶ月)
官位:正五位下/相模守
将軍:惟康親王(第7代)
【義時との関係】玄孫(時頼の子)
【主な事績】元王朝(モンゴル帝国)の侵攻を前に、一族内の反対派を粛清して権力基盤を固める(二月騒動)。二度にわたる元寇(文永の役・弘安の役)を乗り切り、日本国を滅亡の危機から救う。
第9代・北条貞時(さだとき)生没:文永8年(1272年)生~応長元年(1311年)没(40歳)
在職:弘安7年(1284年)4月~正安3年(1301年)8月(17年4ヶ月)
官位:従四位上/相模守
将軍:惟康親王(第7代)・久明親王(第8代)
【義時との関係】来孫(時宗の子)
【主な事績】安達泰盛一族を滅ぼし(霜月騒動)、また平頼綱一族を粛清して(平禅門の乱)執権の独裁力を強化。引退後も影響力を維持したが、次第に将軍同様に執権職も形骸化していく。
第10代・北条師時(もろとき)生没:建治元年(1275年)生~応長元年(1311年)没(37歳)
在職:正安3年(1301年)8月~応長元年(1311年)9月(10年1ヶ月)
官位:従四位下/相模守
将軍:久明親王(第8代)・守邦親王(第9末代)
【義時との関係】来孫(貞時の従兄弟。時宗の養子)
【主な事績】貞時の出家にともない執権に就任するが、政治の実権は貞時に握られていた。
第11代・北条宗宣(むねのぶ)生没:正元元年(1259年)生~正和元年(1312年)没(54歳)
在職:応長元年(1311年)10月~応長2年(1312年)5月(8か月)
官位:従四位下/陸奥守
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】甥曾孫(義時の弟・時房の曾孫)
【主な事績】貞時の命により北条宗方を討ち、重用される(嘉元の乱)。やがて執権職を継いだものの、内管領の長崎円喜に幕政の実権を握られ、執権職は形骸化していく。
第12代・北条熙時(ひろとき)生没:弘安2年(1279年)生~正和4年(1315年)没(37歳)
在職:応長2年(1312年)6月~正和4年(1315年)7月(3年1ヶ月)
官位:正五位下/相模守
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】玄孫(政村の曾孫)
【主な事績】嘉元の乱で父・宗方や祖父・時村たちが討たれたものの生き延びる。執権職を継いだが内管領の傀儡に。
第13代・北条基時(もととき)第13代執権・北条基時(普恩寺入道信忍)。歌川貞秀『英雄百首』
生没:弘安9年(1286年)生~元弘3年(1333年)没(48歳)
在職:正和4年(1315年)7月~正和5年(1316年)7月(1年)
官位:正五位下/相模守
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】玄孫(義時三男・重時の曾孫)
【主な事績】貞時嫡男・高時への中継ぎとして執権に。執権職を譲ってからは政界も引退。後醍醐天皇の討幕運動(元弘の乱)では畿内の反幕勢力追討に従軍。やがて新田義貞らが鎌倉へ攻め込むと化粧坂を防衛するも、最期は自害。
第14代・北条高時(たかとき)第14代執権・北条高時(烏天狗と踊り狂う)。月岡芳年『芳年武者无類 相模守北條高時』
生没:嘉元元年(1304年)生~元弘3年(1333年)没(30歳)
在職:正和5年(1316年)7月~正中3年(1326年)2月(9年7か月)
官位:従四位下/修理権大夫
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】昆孫(貞時の子)
【主な事績】酒色に溺れ、田楽と闘犬に明け暮れた暗君というイメージが強いものの、法論に勝利した法華宗(日蓮宗)の布教を許可するなど道理を通す一面も。在任中は反乱が相次ぎ、最期は東勝寺(現:腹切りやぐら)で自刃。
第15代・北条貞顕(さだあき)生没:弘安元年(1278年)生~元弘3年(1333年)没(56歳)
在職:正中3年(1326年)3月16日~正中3年(1326年)3月26日(0年0ヶ月11日)
官位:従四位上/修理権大夫
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】玄孫(義時五男・実泰の曾孫)
【主な事績】たった11日間で何をしろと!?高時の信任篤く病気で引退した跡を継ぎ、やる気満々だったものの、貞顕の就任ボイコットが相次いだため辞任(嘉暦騒動)。最後は東勝寺で自刃。
第16代・北条守時(もりとき)生没:永仁3年(1295年)生~元弘3年(1333年)没(39歳)
在職:嘉暦元年(1326年)4月~元弘3年(1333年)5月(7年1ヶ月)
官位:従四位上/相模守
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】昆孫(義時三男・重時の玄孫)
【主な事績】嘉暦騒動によって急きょ退任した貞顕の後釜として執権に。妹の登子を嫁がせた足利高氏(後の尊氏)が叛旗を翻したため、汚名を返上するべく最前線で奮闘。65回もの突撃を敢行して最期は自刃。
第17代・北条貞将(さだゆき)生没:乾元元年(1302年)生~元弘3年(1333年)没(32歳)
在職:元弘3年(1333年)5月22日(0年0ヶ月1日)
官位:従五位下/武蔵守
将軍:守邦親王(第9末代)
【義時との関係】昆孫(貞顕の子)
【主な事績】5月22日、これまでの忠義により、守時の討死で不在となっていた執権職を与えられた。「棄我百年命報公一日恩(我が百年の命を棄て、公が一日の恩に報いん)」との言葉を遺し、壮絶な最期を遂げる。
終わりに以上、北条義時を中心とした鎌倉幕府の執権17代を一挙紹介してきました。長く活躍した者もいれば、つなぎとしてあっけなく退場した者もおり、時代の波間に翻弄された人生が偲ばれます。
【在職期間最長ランキング】
1位 北条義時(第2代・18年11ヶ月)
2位 北条泰時(第3代・18年)
3位 北条貞時(第9代・17年4ヶ月)
【在職期間最短ランキング】
1位 北条貞将(第17代・1日)
2位 北条貞顕(第15代・11日)
3位 北条宗宣(第11代・8ヶ月)
武士の世を切り拓き、盤石とした義時・泰時父子と、執権職が形骸化していく最後の隆盛を築いた貞時。永きにわたり御家人たちを牽引するお勤め、本当にお疲れ様でした。
一方、短ければ短いで楽だった訳でもありません。鎌倉幕府最後の一日に執権となって華々しく討死した貞将に、周囲のボイコットや暗殺騒ぎに引きずり降ろされた貞顕など、一度なったらただでは済まないのが執権の定めというもの。
【就任最年少ランキング】
1位 北条貞時(第9代・13歳)
2位 北条高時(第14代・13歳)
3位 北条時宗(第8代・18歳)
【就任最年長ランキング】
1位 北条時政(初代・66歳)
2位 北条政村(第7代・60歳)
3位 北条宗宣(第11代・53歳)
若くして権力の座についたら幸せかと言えば必ずしもそうではなく、また年老いてから就任しても苦労は絶えません。
老いも若きも政治の都合によって祭り上げられ、用済みとなれば退場を迫られるのも執権の定め。皆様、本当にお疲れ様でした。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終わっても、鎌倉時代は現代までつながっています。本作をキッカケにより多くの方が鎌倉時代に興味を持って頂けたら嬉しいです。
※参考文献:
野口実 編『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』戎光祥出版、2021年9月 北条氏研究会 編『鎌倉北条氏人名辞典』勉誠出版。2019年10月 細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ、2011年3月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan