斎藤道三は油売りにあらず!?実は親子二代で成し遂げられた「国盗り」の真実【後編】

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斎藤道三は油売りにあらず!?実は親子二代で成し遂げられた「国盗り」の真実【後編】

どんどん下剋上

【前編】では、斎藤道三の父・長井新左衛門尉が、道三の「国盗り」の土台を前もって作っていたことを説明しました。

斎藤道三は油売りにあらず!?実は親子二代で成し遂げられた「国盗り」の真実【前編】

【後編】では、そうした土台をもとに道三がどのように国盗りを果たしていったのかを見ていきましょう。

斎藤道三像(Wikipediaより)

さて、土岐氏の家臣である長井氏のもとで実力を発揮した長井新左衛門尉が亡くなり、その地盤を息子の新九郎(のちの道三)が受け継ぎます。

家督を継いだ彼がさっそく行ったのが下剋上で、彼は主家である長井氏の惣領を討ちました。それに続き、美濃守護代である斎藤利良が病死したことを受け、新九郎はその名跡を継ぎ斎藤利政と改名すると守護代のポジションを手に入れました。

権勢を奮うようになった彼は、ついには1541年に、守護の弟である土岐頼満を毒殺すると、その翌年に守護である土岐頼芸を追放してしまいました。こうして、彼は実質的な美濃の支配者になったのです。

政争としての下剋上

斎藤道三といえば、このように主君を追放したり毒殺したりした下剋上の部分だけがピックアップされがちです。しかし【前編】で説明したように、彼は親子二代で長井氏に仕えていた身分でした。道三の行為は荒々しい下剋上というよりももっと政治的な、政争の一環だったと言えるでしょう。

彼のその後は知られている通りです。一度は追放された土岐頼芸は、尾張の織田信秀や越前の朝倉孝景から支援されて、一度は美濃守護への復帰を果たしました。しかし道三はうまく立ち回り、織田・朝倉と同盟を結んで頼芸の後ろ盾を奪うと、再び追放してしまいます。

成功と没落

そして1549年には、織田信長に娘の濃姫を嫁がせて同盟を結び、1554年に息子の義龍に家督を譲りました。

ただこの家督譲渡もスムーズではなく、道三はここで家臣からの支持を失ってしまい、隠居に追い込まれたとも言われています。しかもその後は、その義龍から長良川の戦いで討たれてしまったのですから不憫です。

長良川

斎藤親子の仲たがいの原因についてもいくつかの説がありますが、道三が義龍の弟の方を偏愛したからとか、実は義龍は道三の実子ではなく土岐頼芸の息子だったからではないか、とも言われています。義龍の母は、土岐頼芸の愛妾でもあったからです。

このように見ていくと、斎藤道三は確かに力ずくで主君を追い出した点が荒っぽく、いかにも画期的な時代の寵児という感じですが、それ以外は意外と普通の政治家でもあったことが分かります。

斎藤義龍像(常在寺蔵・Wikipediaより)

父の地盤を受け継ぎ、政争に明け暮れ、最期は家庭内不和によって内部崩壊を起こしたと斎藤道三の生涯を俯瞰してみると、また今までとは違ったイメージが湧いてきそうです。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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