『西遊記』三蔵法師の孫弟子?伝説の僧侶・行基が実践した”他者の利益を優先する”教え

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『西遊記』三蔵法師の孫弟子?伝説の僧侶・行基が実践した”他者の利益を優先する”教え

師匠の師匠は三蔵法師

行基(ぎょうき)という奈良時代のお坊さんのことは、皆さん日本史の中で耳にしたことはあるでしょうか。

人柄までもがリアルに感じられそうな重要文化財「行基菩薩坐像」(Wikipediaより)

実はこの人、『西遊記』に登場する三蔵法師の孫弟子と言われています。その他、日本で最初の「大僧正」になるなど、数々の伝説に彩られています。

彼が生まれたのは西暦668年、大阪でのことでした。彼は15歳という若さで出家すると、24歳で戒を宇けて飛鳥寺に入ります。

若い頃は山の中での修行と、飛鳥寺で経典を学ぶ日々を送った行基は、40歳頃から民衆への布教や社会事業を行うようになります。

飛鳥寺の入口

民衆への布教というと現代の感覚では珍しいものではありませんが、当時の僧侶は寺院に篭って祈るというスタイルが普通で、外に出て布教活動に励むということはありませんでした。

なぜなら、当時の日本における仏教は、信仰というよりも政治を執り行うための学問としての性質が強かったからです。そのため民衆への布教は禁じられることもありました。

そんな風潮の中、行基は仏教の信仰としての性質を取り戻すべく、民衆へ教えを説くために諸国を歩きまわったのです。

仏の教えを実践

さらに布教だけでなく、彼は布施屋と呼ばれる施設を建てました。これは街の貧しい人々に寝る場所と食べるものを提供する福祉施設のようなものです。

他にも川に橋を架けたり、農業用の池を掘ったり、道路を作ったりと、民衆のための土木事業を多数行いました。その数は布施屋が9ヶ所、橋が6ヶ所、溜池が15ヶ所、寺院が49ヶ所に及びます。

行基が源泉を掘り当てたとされる高松市塩江温泉郷の「行基の湯」。行基にとっては温泉発掘も公共事業の一環だった

なぜいち僧侶が、公共事業を決定する政治家のようなことをしているのでしょうか。ヒントは行基の師匠筋にあります。

彼が「玄奘三蔵」いわゆる三蔵法師の孫弟子にあたることは最初に述べましたが、行基の師匠である道昭は、唐へ渡った時に玄奘から教えを受け、大乗仏教の利他行を学んでいます。

利他行とは、自らの利益や悟りを追求するだけでなく、他者の利益を優先することを大切にする教えです。

この教えを道昭から学んだ行基は、公共事業という形でそれを実践したのです。

聖武天皇にも力を貸す

当初、禁止されている民衆への布教を行う行基を抑えこむ動きもありましたが、時の天皇である聖武天皇は、そんな行基に目を付けました。国分寺の建立東大寺の大仏造立を果たすべく、彼の力を借りようと考えたのです。

民衆を救うために活動していた行基と、民衆の心をひとつにまとめようとする統治者としての天皇とでは、もちろん思惑にずれもあります。

しかし、寺の建立と大仏造立が民衆の心の拠り所になると考えた行基は、協力することを決め、東大寺の大仏造立の実質的な責任者として尽力しました。

言わずと知れた東大寺の大仏

そして行基は日本で初めて大僧正の位を受けることになりました。

そんな行基の民衆からの支持はすさまじく、行基菩薩と呼ばれるほどだったそうです。今でも、東大寺のある奈良県中心部の駅前には行基の像が建っており、人々に親しまれています。

参考資料
コラム 行基による公共事業
神戸のタウン誌-月刊 神戸っ子
産経ニュース
バズプラスニュース

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