どこまでも正直一筋!徳川家康を感心させた「仏の高力」高力清長のエピソード【どうする家康】

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どこまでも正直一筋!徳川家康を感心させた「仏の高力」高力清長のエピソード【どうする家康】

♪仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵……♪

※『徳川実紀』より

三河国を統一した徳川家康(とくがわ いえやす)が、国内の統治を任せた岡崎三奉行

やさしい高力清長(こうりき きよなが。与左衛門)と厳しい本多重次(ほんだ しげつぐ。作左衛門)、そして硬軟併せ持つ(どっちにも偏りのない)天野康景(あまの やすかげ。三郎兵衛)が三位一体となって、バランスのとれた政治を行ったそうです。

※岡崎三奉行について:

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さて、今回はそんな三奉行の一人で「仏の高力」と異名をとった高力清長を紹介。家康の人質時代から忠義を尽くした彼の仏ぶりを垣間見ていきましょう。

家康も呆r……もとい感心した正直ぶり

高力清長は享禄3年(1530年)、松平家々臣・高力安長(やすなが)の長男として誕生しました。家康の初陣から付き従い、数々の武勲を重ねます。

永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて勃発した三河一向一揆の鎮圧でも武勇を奮う一方で、日ごろ信心深かったらしく仏像や経典などが戦火で失われぬよう保護に努めました。

保護された仏像(イメージ)

戦後は保護した仏像や経典をそれぞれ返還したため、人々は清長を仏の高力と呼ぶようになります。強いだけでなく、優しさも兼ね備えていたのですね。

その後も数々の武勲を重ねて武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市)に2万石を拝領。晴れて大名の仲間入りを果たします。

この時、武蔵国足立郡浦和郡(同市)に1万石の蔵入地を預けられました。蔵入地とは主君の直轄領で、現地の年貢はもちろん主君のものなのですが、実態としては預かった者が大部分を自由に出来たそうです。

多くの家臣たちがこれを役得(副収入)として財政に補填していた中で、清長はこれに一切手を付けず、上がった年貢を毎年きっちりと家康に上納しました。

「まったく、律義なヤツだ……」

家康は呆れるやら感心するやら。ただし年貢を受け入れる当局としては、手続きが煩雑化するので面倒がったのではないでしょうか。

「やれやれ、別に米が足りない訳でもないのだから、高力家で処理してくれた方が楽でよいのに……」

そんな清長の正直ぶりは朝鮮出兵(文禄の役。天正20・1592年~文禄2・1593年)においても発揮され、軍船の建造を担当した清長は「御屋形様のご負担を少しでも減らさねば」とばかりコスト削減を達成。

果たして節約できた黄金20枚を家康に献上しました。ふつう与えられた予算は目一杯使い切るか(そうでないと、次から予算をカットされてしまうから)、あるいは手元にプール(ストック)しておいて次なる無茶ぶりに備えるのが役人の知恵というもの。

あまりの正直さに呆れる家康(イメージ)月岡芳年筆

「どこまでも律儀なヤツめ……とは言え、いちいち返納を受け付けるのも面倒なので、正直の褒美としてくれてやれ」

家康は呆れるやら感心するやら……かくして清長は節約した黄金20枚を賜ったということです。

終わりに

こんな調子で正直一筋に生き抜いた高力清長は慶長5年(1600年)に隠居して、嫡孫の高力忠房(ただふさ)に家督を譲ります。

そして慶長13年(1608年)1月26日に世を去りました。享年79歳。その墓所は浄安寺(埼玉県さいたま市)にあり、今も人々の暮らしを見守っているそうです。

NHK大河ドラマ「どうする家康」には登場するでしょうか。するとしたらキャスティングにも注目ですね!

※参考文献:

中村孝也『徳川家康公伝』東照宮社務所、1965年1月 本多隆成『定本 徳川家康』吉川弘文館、2010年12月

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