【幕末維新】天に達すか、尊皇攘夷の志。水戸天狗党の乱に散った志士・藤原天達 (3/4ページ)
この時、虎太郎は軍師として200余騎を率いたと言いますから、周囲から一軍の指揮を認められるだけの実力(人望、知略など)を備えていたのでしょう。
しかし3月から12月まで長きにわたる激戦の中、那珂湊(茨城県ひたちなか市)の合戦に敗れた虎太郎は、勝機なしと見切って軍旗を首領の武田耕雲斎(たけだ こううんさい)に返上しました。
そして紅葉鮮やかな10月某日、高台寺で切腹して果てたということです。
終わりに尊皇攘夷の志高く、激しい生涯を駆け抜けた清左ェ門。短くも充実した日々であったろう(イメージ)
【竹林虎太郎こと藤原天達 略年表】
天保2年(1831年)誕生? 天保14年(1843年)誕生?
幼名は卯之助、元服して藤原天達と改名(通称は清左ェ門)。
活動資金を貯めるため、江戸に出て商家となる
徳川斉昭の思想に感激、竹林虎太郎と改名して天狗党に身を投じる
元治元年(1864年)天狗党の乱
3月、挙兵(軍師として兵200騎を率いる)
8月、那珂湊の合戦に敗れ軍師を辞する
10月、高台寺で切腹(享年34歳?22歳?)
以上、藤原天達の生涯を駆け足でたどってきました。