勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

犬山城の天守閣(愛知県犬山市)

さて、家康・信雄の連合軍に対して、秀吉は犬山城に入って楽田に着陣します。ここに、小牧の戦いの火ぶたが切って落とされました。

まず秀吉は、家康の本拠である三河を攻めようと考えます。

攻めて、敗れて…

三河攻めのために進軍したのは、羽柴秀次・池田恒興・森長可の三人です。

しかし家康はこの動きを察して、反対に三河へ進軍中だった羽柴秀次の軍の背後から襲撃。白山林で打ち破ると、さらにその勢いで、長久手で池田・森の両軍と戦闘を繰り広げたのでした。これが長久手の戦いです。

国の史跡にも指定されている愛知県長久手市の長久手古戦場

この戦いでは家康が見事に勝利をおさめ、池田・森の両名が討ち取られた上に秀吉軍は2500名もの兵を失う結果になります。

ちなみに、伝説によると長可は眉間を鉄砲で打ち抜かれて死亡し、その戦死地には、官名にちなんだ「武蔵塚」と呼ばれる墓碑が立っています。

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