毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】
世界的視野で見る16世紀の石見銀山
かの毛利元就は1562年から約20年間、島根県の石見銀山を領有しています。毛利氏がこの銀山を取得するまでには大内氏・尼子氏との熾烈な戦いがありました。
なぜ彼らはそこまで石見銀山に執着したのでしょうか。もちろん銀の産出量が多いからというのもありますが、実際にどれくらいの規模だったのかは、世界的視野で見る必要があります。
16世紀後半~17世紀前半の間、日本という国では、東アジアでも右に出るものがないほど金・銀・銅がたくさん採掘されていました。
16世紀、世界の主な銀山と言えばアウクスブルク、メキシコのサカテカス銀山、現在のボリビアのポトシ銀山がありましたが、石見銀山はこれに肩を並べるほどのものでした。最盛期には、世界の三分の一の銀を産出したと言われています。
銀(と金・銅も)は当時の日本で、生糸などの貿易対価として中国へ輸出されていました。また、いわゆる南蛮人たちも多くがこれを目当てに日本へ渡ってきています。
その中でも、銀は特に見栄えが良く、劣化しにくいうえに加工しやすいということで、貴金属あるいは通貨としてそのまま使われたりしました。
争奪戦が始まるこのように見ていくと、石見銀山は世界規模の利益を生み出す銀山だったことが分かります。もともと石見銀山が発見されたのは鎌倉時代で、本格的な採掘が始まったのは16世紀、石見の領主だった大内氏によるものでした。
1533年には、博多の大商人である神谷寿禎によって技術者が招かれ、朝鮮半島由来の技法である灰吹法が用いられるようになります。
灰吹法は、銀を採掘現場で精錬することでより効率的に採掘を進めることができる技法で、これが全国の鉱山に伝わると、産出量はさらに増えたといいます。
このあたりから、大名による石見銀山の奪い合いがスタートします。
まず1538年には、出雲の尼子経久によって、一時的にではありますが奪われる事態になりました。これをきっかけに、尼子・大内による銀山の争奪戦が進んでいきます。
【後編】では、大内氏の衰退とあわせて毛利元就が登場し、尼子氏との抗争に突入していった経緯を解説します。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan