毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

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毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

毛利VS尼子!

【前編】では、戦国時代の石見銀山が世界的にも大きな存在感を持っていたことや、その領有権を巡って大内氏と尼子氏が争ったことを説明しました。

毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】

さて、16世紀から石見を支配し、本格的に採掘をしていた大内氏ですが、大内義隆が没したところで石見銀山支配に乗り出してきたのが毛利元就です。

大内義隆の菩提寺である龍福寺の本堂(山口県)

彼は陶晴賢に対して勝利を収めるなどして台頭していき、一時は石見銀山を奪取しました。しかし忍原・降露坂の戦いなど、尼子晴久との抗争では敗北し、今度は奪い取られます。

が、1561年1月、居城である月山富田城内で晴久が47歳で急逝し、尼子家内に動揺が走ったところを元就は見逃さずに石見へ侵攻。晴久の後継となった尼子義久は和睦を試みますが、元就は反対に「石見不干渉」を条件として和平を持ちかけたのです。

尼子晴久像(山口県立山口博物館蔵・Wikipediaより)

このことからも、いかに石見銀山の存在感が大きかったかが分かりますね。義久は泣く泣くこの条件を呑むことにしました。

毛利元就の財力を支えた「銀」

こうして、1562年以降の20年間、石見銀山は毛利氏によって領有されることになります。

元就は、朝廷に石見銀山を献上し、銀100枚ほどを毎年上納することで、自分が銀山の正当な支配者であることを示したといいます。

石見銀山世界遺産センターの入口

元就はこのほかにも石見銀山を大いに活用しました。例えば石見銀を温泉津から出荷して、大陸との交易で拠点としていた赤間ケ関(現在の山口県下関)で、火薬の原料となる中国製の硝石を購入したりしています。

また、かの厳島神社にもたくさんの石見銀を寄附しており、回廊を建立する際にはかなりの費用を負担したとされています。

厳島神社

こうした事柄を見ていくと、改めて当時の石見銀山の存在感の大きさや、最終的に領有した毛利元就の経済力を「銀」が支えていたことが分かりますね。

ちなみに余談になりますが、尼子晴久という人物は織田信長や徳川家康のようなビッグネームと比べるとやや影が薄いものの、石見銀山を巡る熾烈な戦いでは将としても優れた才能を見せ、毛利元就を何度も撃退するなどの活躍ぶりでした。今でも根強いファンが多く存在します。

一時は石見銀山を支配した尼子氏も、名将として誉れ高い尼子晴久の没後は衰退し、その後5年で毛利元就に攻め滅ぼされています。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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