明治維新より前に幕府軍と戦った浪人集団「天誅組の実態と軌跡!」 (2/3ページ)

日刊大衆

実は、長州藩とともに行幸計画の中心人物だった公卿の三条実美も彼らの挙兵を知らず、その事実を聞き、「(彼らの行動が)かえって(行幸の)妨害をかもすに至る」と送ったが、寅太郎らはその制止を振り切ったのだ。

 寅太郎はもともと既得権益にがんじがらめになっている諸大名を当てにせず、浪人による「天下一新」を持論にしていた。

 それだけに、今こそが好機だという思いが強かったのだろう。結果、総勢三八名が中山卿を大将に八月一四日に京を発ち、大坂・堺を経て河内に入った。河内では豪農や百姓らを人数に加え、さらには武器、弾薬、食糧なども集めて、一七日に大和の五條へ入った。

 そして、その日の夕刻、総勢六〇名ほどで代官所を襲撃したのだ。五条代官所は大和国の天領(幕府領)七万石を支配しており、寅太郎がいわば討幕の先駆けとして挙兵した以上、そのターゲットはやはり幕府でなければならなかった。

 代官所にはその日、一三名ほどの役人がいたが、たちどころに制圧して建物を焼いた。

 こうして彼らは、討幕のために初めて組織的に武装蜂起した勢力として幕末史にその名をとどめることになった。

 その後、彼らが代官所に隣接する桜井寺を本営として、主将(中山卿)、総裁(吉村ら)のポストを定め、本陣には「五条御政府」の立て札を掲げた。

 ところが、寅太郎らが代官所を襲撃した翌一八日に中川宮(前出)らが動き、当時、まだ公武合体派だった薩摩藩と会津藩の政変(クーデター)が成功。大和行幸は中止になり、長州藩や三条らの攘夷派は京から一掃されたのである。

 寅太郎らが京の同志からの連絡で政変の事実を知るのは翌一九日。賊軍となった彼らには、このとき兵を解散して時を待つという選択肢があったものの、京での巻き返しは十分可能であり、そのための先駆けの兵になろうと考えたようだ。

 そこで勤王の志を持つ十津川郷士らを味方につけ、自然の要害に頼ろうと、本陣を山間天辻(奈良県五條市)に移した。十津川村ではかなり強引な徴兵を行ったこともあり、多くの農兵が集まり、こうして彼らは一〇〇〇名を超える陣容となった。このときはまだ意気盛んだったのだ。

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