明治維新より前に幕府軍と戦った浪人集団「天誅組の実態と軌跡!」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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「武力討幕」を狙った薩長両藩は幕府が存在している間に、その目的を果たすことができなかった。戊辰戦争は幕府が王政復古のクーデターで廃止に追い込まれたあとの出来事。幕府側は「旧幕府軍」と称されるから、幕末維新の動乱で、結局、武力による討幕は実行されなかったことになる。

 ところが、明治維新を迎える五年前に「討幕の旗」を掲げて幕府軍と戦った浪人集団がいた。「天誅組」だ。彼らの軌跡と謎を追った。

 事件が起きたのは攘夷の動きが最も活発になった文久三年(1863)。当時、ペリー来航後の国難に対応するため、朝廷に新設された国事参政などの職に若い攘夷派の公卿が就き、彼らは長州藩に後押しされ、「攘夷親征」を決定した。

 これは当時の孝明天皇自らが先頭に立ち、攘夷を断行しようというもの。このため、八月一三日に大和(奈良県)行幸の詔みことのりが下された。

 大和国は朝廷発祥の地。天皇が神武天皇陵や春日大社などで攘夷祈願する計画で、この大和行幸には一〇余藩の軍勢がつき従う予定だった。

 加えて攘夷派は、幕府が天皇の攘夷命令に従わないなら、一気に討幕と王政復古を実現しようとした。

 つまり、大和行幸といいつつ、実現すれば、天皇を中心とした討幕軍になるはずだったのだ。

 とはいえ、孝明天皇自身は討幕どころか、幕府と朝廷が一体になって難局を乗り切ろうという公武合体派。過激な攘夷派公卿や長州藩に押し切られたものの、親政を延期したいという本音を側近の中川宮に漏らしていたともいわれる。

 天皇自身がそうなのだから、詔は下されても、攘夷派にとって実行できるかどうか微妙な情勢だった。

 ところが、この計画に飛びつき、先走りした人物がいた。土佐藩の脱藩浪士、吉村寅太郎だ。

 当時、土佐藩内の攘夷運動は下火になっており、寅太郎を中心とした一八名の土佐藩出身者が攘夷派の若手公卿、中山忠光に働き掛け、天皇の大和行幸の先駆けという触れを回して浪人らを掻き集めたのである。

 ただし、行幸の先駆けというのは寅太郎らが兵を募る口実に過ぎなかった。

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