虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】
「空城の計」の真相は?
【前編】では、武田信玄と若き日の徳川家康が激突した三方ヶ原の戦いが起きた経緯を解説しました。
虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【前編】三方ヶ原で2万5千の武田軍に対して1万の軍で挑んだ家康は、あっという間に惨敗。家康の盾になって多くの重臣たちが戦死し、家康はなんとか浜松城へ逃げ帰ります。
この時に使われたのが、城門を開け放って敵の警戒心を煽る「空城の計」だったと言われています。
この時、家康は豪胆にも城に逃げ帰るとぐっすり寝てしまった、そして武田軍は『三国志演義』さながらに空城の計に引っかかり、城攻めを警戒していたところで不意を衝かれた……とよく言われます。
しかし、後の江戸幕府公認の資料である『武徳大成記』『武功雑記』によると、城に逃げ帰った家康は、まず「自分は無事である」ことを城内で家臣に必死にアピールしていたそうです。しかも偽物の信玄の首級を用意し、ウソの勝利宣言までしていました。
そして、徳川軍はまだ抗戦可能だということを敵に見せつけるために、銃を城外に撃ち放ちます。それを見た敗残兵たちもどんどん城に戻ってきました。彼らが城に戻れるよう、浜松城の門は開けてあったのです。
また、銃をパンパン撃たれている状態では、武田軍もうかつには近寄れませんでした。
以上の経緯を、あたかも家康が諸葛亮公明のように「空城の計」をやってのけたかのように後世に伝えたのは、『四戦紀聞』という史料です。これはもともと家康礼讃を目的とした創作物語です。
失禁エピソード、そして「しかみ像」あとは、三方ヶ原の戦いにまつわるエピソードと言えば有名な失禁と顰(しかみ)像に関するものでしょう。
まず敗走時に恐怖のあまり失禁してしまい、便を「これは味噌だ」と家臣に言い訳をしたという逸話ですが、これも俗説で、証拠となる史料は一切ありません。
また、この戦いを教訓とするために、彼は顔をしかめた自画像を絵師に描かせて、この絵を生涯座右に置いていたと言います。この有名な顰(しかみ)像は現在は徳川家康三方ヶ原戦役画像と名付けられて徳川美術館に蔵されています。
しかしこの絵も、近年、三方ヶ原の戦いとは無関係だという説が提唱されています。
もともと美術史的な観点からすると、描かれたのは三方ヶ原合戦後よりもずっと後の17世紀頃ではないかと言われています。
またその伝承もあやふやで、18世紀末には単純に家康の肖像画と言われていたのに、明治時代には長篠戦役図と呼ばれ、昭和になってから三方ヶ原合戦直後の肖像画だと称されるようになったのです。
そもそも、この絵には、三方ヶ原合戦の直後に描かれたものだという箱書や目録などの添付資料もなく、従来の伝承を根拠づけるものは一切ありません。
このように、今では三方ヶ原の戦いは、証拠がないあやふやなエピソードと作り話に彩られた部分が多いとされています。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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