前代未聞の征夷大将軍襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【前編】

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前代未聞の征夷大将軍襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【前編】

畿内支配が果たされるも…

16世紀の日本が「乱世」すなわち戦国時代に突入していった原因として、室町幕府の将軍位の争奪戦の因縁が関係者の間で親から子、子から孫へと引き継がれて、争いが泥沼化していったことが挙げられます。

特に細川・足利両家の争いが凄まじかったのですが、これを制する結果になったのは両家のどちらにも属さない三好長慶でした。

三好長慶(Wikipediaより)

とはいえ、これで将軍位をめぐる全ての争いが収束したわけではありません。そもそも、多くの人間が求めていたはずの将軍位そのものの権威が否定され、ドロドロした抗争だけが残る結果になります。

そうなる大きなきっかけとなったのが、永禄の変と呼ばれる将軍襲撃・暗殺事件です。

この事件の経緯を、前・後編に分けて追っていきます。

義輝の将軍就任

1546年に室町幕府の13代将軍となった足利義輝ですが、彼の就任はあまり平和裏に行われたとは言えませんでした。

足利義輝(Wikipediaより)

父である義晴から将軍職を譲られた時はまだ11歳で、その就任式も京ではなく、亡命していた近江で行われたのです。義輝も義晴も、三好長慶との対立により京を追われていたのでした。

そんな状況下での将軍就任でしたが、後に義晴が逝去すると、義輝は京へ戻ることを狙って三好長慶と争います。しかしそのたびに敗北しては近江へ亡命することを繰り返し、ようやく長慶との和睦が成立したのは1558年のことでした。

「まとも」な将軍

復帰後の義輝は将軍として孤軍奮闘し、何とかして社会秩序を取り戻しつつ将軍職の権威を回復させようと努めています。

とにかく当時の世の中というのは「めちゃくちゃ」でした。あらゆる名門の大名家が家来によってぐちゃぐちゃになっており、あっちは家督争い、こっちは下剋上、泥沼の陣取り合戦を続ける連中がいるかと思えば関東は北条と上杉によってめちゃくちゃ、という状況だったのです。

しかもそれらの原因を作ったのは足利義政に義教と、歴代の将軍にありました。義輝はこうした事態へ責任感を持って対処していたのです。

そこで彼が行った施策としては、例えば長年争った三好長慶をはじめとする三好一門を厚遇して、対立することなくうまく臣下に組み込んだことが挙げられます。

さらに、武田信玄と上杉謙信の争いのほか、多くの大名家で起きていた争いを調停しました。

彼のこうした将軍らしい振る舞いが功を奏し、1559年には織田信長や斎藤義龍、上杉謙信が上洛し謁見することで権威向上を狙ったりしています。

上越妙高駅と上杉謙信公騎馬像

このように、足利義輝は当時としては極めて稀な「まともで将軍らしい将軍」でした。しかし彼の活躍は長く続きませんでした。(【後編】に続く)

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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