前代未聞の征夷大将軍 襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【後編】

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前代未聞の征夷大将軍 襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【後編】

三好三人衆の台頭

【前編】では、室町幕府の13代将軍である足利義輝が、将軍として奮闘していったさまを説明しました。

前代未聞の征夷大将軍襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【前編】

足利義輝(Wikipediaより)

将軍職の権威を取り戻しつつあった義輝ですが、にわかに状況が変わったのは1564年のことです。畿内征服を果たしたのち、義輝と和睦して御相伴衆に加えられるなどし、幕府内でも厚遇されていた三好長慶が病没したのです。

その後を継いだのが、長慶の養子だった三好義継です。

しかし彼はまだ若年だったため、後見人の立場に就いたのがかの松永久秀で、さらに三好三人衆と呼ばれることになる三好長逸・三好宗渭・岩成友通も影響力を強めていくことになりました。

彼らは、足利義輝が将軍として復権することを嫌っており、傀儡体制を維持するために足利義栄を立てようと試みました。義栄は義輝のいとこにあたり、彼を操り人形とすることで権力を掌握しようとしたのです。

将軍暗殺

もともと義輝は、このように将軍が傀儡化されたことで社会秩序がめちゃめちゃになったのを知っていました。よって自身は傀儡となることをよしとせず、自らの責任で社会秩序を回復させようとしていたのです。

義輝と義栄が衝突するのは避けられませんでした。

このことがきっかけで、それまでは辛うじて保たれていた、三好氏と足利家(将軍家)との間に亀裂が生じていったのです。

そして1565年5月に惨劇が起きました。先述の三好三人衆と、松永久秀の息子である久通の軍勢が上洛し、一万の兵が義輝を襲撃したのです。

その時、義輝は居所である二条御所にいました。御所の警護は数百程度しかおらず、義輝とその家来たちは奮戦します。

京都の二条城(二条御所)

永禄の変の余波

実は義輝は、剣豪の塚原卜伝から剣術を学んだと言われており、その腕もかなりのものだったと推測されています。襲撃を受けた際、彼は自ら薙刀を手にし、刀を抜いて応戦したと言います。

しかし多勢に無勢で、義輝はついに討たれて壮絶な最期を遂げました。その最期はやや伝説めいていますが、討たれる直前まで敵を何人も斬り倒したと言います。

塚原卜伝像

これが永禄の変と呼ばれる将軍襲撃・暗殺事件です。邪魔者を排除したことで、三好三人衆は傀儡政権を確立する足掛かりを得る格好になりました。

しかしその後、彼らは松永と対立することになり、またしても畿内地方は戦火に包まれていきます。これが完全に終息するまでには織田信長の登場を待つ必要がありました。

ちなみに永禄の変において、三好・松永の軍勢が上洛すること自体は最初から取り決められていましたが、将軍襲撃という事態に発展したのは偶然だったのではないか、とも言われています。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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