藤原氏による他氏排斥事件の真相「安和の変」は一族間の政治抗争! (2/3ページ)
高明に加担した千晴の父は、その乱を鎮圧した藤原秀郷。同じ藤原一門だが、地方で武力を養った一族だ。
その千晴が投獄されているのは事実だから、ありえない話でもなさそうだが、『源平盛衰記』は後年の鎌倉時代に書かれた軍記物語。話を脚色している疑いがある。
歴史書の『日本紀略』によると、安和二年三月二五日付で為平親王に関係する人物が一斉に処罰され、高明も太宰帥に左遷されているが、本当に東国で挙兵する企みだったなら、それくらいの処罰ですまされなかったはずだ。
しかも、彼の子息たちは権大納言や権中納言にのぼり、娘はかの藤原道長(父は藤原兼家)に嫁いでいる。とても謀叛を企てた一族とは思えない。『日本紀略』にも「満仲が密告した」とあり、それは事実だったとして、高明はいったい何を企てたのか。
それについての詳細は『源平盛衰記』を除き、どの史料も沈黙している。すなわち、満仲の密告がなんの根拠もなく、『大鏡』の記載通り、高明が藤原三兄弟の罠にはめられたともいえる。
だが、『大鏡』とは別の歴史物語『栄花物語』には冷泉の次に為平を飛び越えて守平を即位させたのは村上天皇の意思だったと書かれている。
つまり、村上天皇の崩御後、その遺言に従い、守平が冷泉の次の天皇になるレールが敷かれたというのだ。
では、なぜ村上天皇は“為平外し”に踏み切ったのか。問題は冷泉天皇の健康問題にあった。
皇統は「村上-冷泉-その皇子」の順に引き継がれるべきだが、当時はまだ冷泉に皇子が誕生しておらず、その健康問題もあって、彼の皇子に引き継がせるための一代限りの天皇を用意しなければならなかった。
その条件として、冷泉に年齢が近く皇統分裂の危険が残る為平より、当時、まだ元服前の九歳だった守平が相応しいと考えたのだろう。
結果、冷泉の皇子が後に円融天皇(守平親王)の禅譲を受けて花山天皇として即位。村上の遺言通りになった。天皇の遺言なのだから、そもそも藤原三兄弟の出る幕はない。
つまり、安和の変は皇位継承問題とは無関係。