藤原氏による他氏排斥事件の真相「安和の変」は一族間の政治抗争!
平安時代に応天門の変と昌泰の変で政敵を相次いで倒していった藤原氏。これらの変を、藤原氏による他氏排斥事件と呼ぶ。その締めくくりが安和二年(969)に左大臣源高たか明あきらを失脚させた事件(安和の変)だ。
高明は醍醐天皇の皇子ながら、母が藤原氏でなかったため源姓を賜り、臣籍に降った。家柄のみならず、政治力を兼ね備え、二六歳で参議(現在でいう閣僚)となり、康保三年(966)に右大臣、翌年には左大臣へと進んだ。
しかも、村上天皇(高明の異母弟)の皇子の一人である為平親王の后の父。つまり、親王が即位したら、藤原氏に代わり、外祖父として摂政や関白を世襲することもできる。
それを阻止しようと藤原氏が政敵である高明らを排斥したというのが通説だが、この事件がそういう単純な構図の話でないことが明らかになってきた。その真相を探ってみよう。
まず、村上天皇が康保四年(967)五月に崩御。ただちに為平親王の兄、憲平親王が冷泉天皇として即位した。
しかも、その年の九月には為平親王を飛び越えて、その弟の守平親王(後の円融天皇)が皇太弟となった。
為平の兄の憲平が即位するところまではいいとしても、その次の天皇に弟の守平が指名されるのは“為平外し”、さらに“高明外し”の意図があったとしかいえない。
そこで歴史物語の『大鏡』はその理由について「式部卿(為平)が(天皇)になったら西宮殿(高明)の世となって栄える」からだとし、「(冷泉天皇の)御舅たち」を首謀者に挙げる。天皇の舅に当たる藤原伊尹と兼通、兼家の三兄弟を指す。『大鏡』はその皇太弟争いが安和の変の原因だとしつつも、事件の詳細については触れていない。そこで『源平盛衰記』を参考にしてみよう。
守平が皇太弟となった一年半後のことだ。高明が娘婿の為平を皇位に就けようと画策し、清和源氏(清和天皇を祖とする賜姓皇族)の源満仲や藤原千晴らを誘い、東国で挙兵する企てを巡らせたが、心変わりした満仲の密告によって陰謀が露見したというのである。
東国で挙兵といえば、この一世代前に京の朝廷を震撼させた平将門の乱(931~940年)を思わせる。
高明に加担した千晴の父は、その乱を鎮圧した藤原秀郷。同じ藤原一門だが、地方で武力を養った一族だ。
その千晴が投獄されているのは事実だから、ありえない話でもなさそうだが、『源平盛衰記』は後年の鎌倉時代に書かれた軍記物語。話を脚色している疑いがある。
歴史書の『日本紀略』によると、安和二年三月二五日付で為平親王に関係する人物が一斉に処罰され、高明も太宰帥に左遷されているが、本当に東国で挙兵する企みだったなら、それくらいの処罰ですまされなかったはずだ。
しかも、彼の子息たちは権大納言や権中納言にのぼり、娘はかの藤原道長(父は藤原兼家)に嫁いでいる。とても謀叛を企てた一族とは思えない。『日本紀略』にも「満仲が密告した」とあり、それは事実だったとして、高明はいったい何を企てたのか。
それについての詳細は『源平盛衰記』を除き、どの史料も沈黙している。すなわち、満仲の密告がなんの根拠もなく、『大鏡』の記載通り、高明が藤原三兄弟の罠にはめられたともいえる。
だが、『大鏡』とは別の歴史物語『栄花物語』には冷泉の次に為平を飛び越えて守平を即位させたのは村上天皇の意思だったと書かれている。
つまり、村上天皇の崩御後、その遺言に従い、守平が冷泉の次の天皇になるレールが敷かれたというのだ。
では、なぜ村上天皇は“為平外し”に踏み切ったのか。問題は冷泉天皇の健康問題にあった。
皇統は「村上-冷泉-その皇子」の順に引き継がれるべきだが、当時はまだ冷泉に皇子が誕生しておらず、その健康問題もあって、彼の皇子に引き継がせるための一代限りの天皇を用意しなければならなかった。
その条件として、冷泉に年齢が近く皇統分裂の危険が残る為平より、当時、まだ元服前の九歳だった守平が相応しいと考えたのだろう。
結果、冷泉の皇子が後に円融天皇(守平親王)の禅譲を受けて花山天皇として即位。村上の遺言通りになった。天皇の遺言なのだから、そもそも藤原三兄弟の出る幕はない。
つまり、安和の変は皇位継承問題とは無関係。さらに、この事件が藤原氏による他氏排斥事件とする通説にも疑問が投げかけられている(沢田和久著「冷泉朝・円融朝初期政治史の一考察」/『北大史学』五五号)。
そうなると、なぜ高明は左遷され、その関係者が処罰されたのだろうか。
まず安和の変によって実益を得たのが誰なのか見てみよう。
■変の真相は通説と違い一族間の政治抗争か!?
高明の左遷後、右大臣だった藤原師尹が代わって左大臣に昇進。その年の八月に冷泉天皇が守平親王に譲位し、その円融天皇の摂政になったのが太政大臣の藤原実頼。彼は小野宮という皇族の邸を買い取り、小野宮流という有職故実の祖でもあった。
一方、例の三兄弟の父を師輔といい、摂政になった実頼の弟で左大臣に昇進した師尹の兄だった。
師輔は平安京の九条に邸があり、その一族を九条流と呼んで、彼もまた有職故実の祖となった。この九条流と小野宮流とは互いに反目していたことが史料から読み取れる。
特に小野宮流の実頼は、冷泉天皇の即位で外戚となった九条流の師輔を警戒した。そして、師輔の娘は高明に嫁いでいた。通説では師輔が亡くなり、高明が孤立して三兄弟との確執が生まれたとするが、その確証はなく、むしろ、後に高明の娘が道真に嫁ぐように、九条流藤原氏と協力関係にあったと考えられる。
つまり、小野宮流の実頼が、反目する九条流の勢力を削ぐために弟の師尹を誘い、九条流と協力関係にあった高明の失脚を図ったという構図が見えてくる。
だとすると、安和の変の原因は藤原一族間(小野宮流vs九条流)の政治抗争にあり、高明が九条流と縁戚関係にあったがために巻き添えを食ったことになろう。
結果、藤原一族間の抗争は、実頼と師尹が相次いで没し、九条流に軍配が上がった。そうして九条流が摂関家の嫡流となり、道長の時代に全盛期を迎えるのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。