理想郷づくりが仇に…「九州三国志」最強の大友宗麟が島津に敗北するまで (2/2ページ)
大友・伊東軍はいったんは島津軍を撃破して日向北部から追い払います。宗麟は日向無鹿に本陣を置いており、さらにその先の島津攻略を家臣に任せて、自分自身は周辺の寺社仏閣を破壊して教会建設を推し進めていきました。
この、自らの理想郷建築に没頭したことが仇となります。
島津兄弟に敗れる1578年11月、総大将の大友宗麟が不在の状態で。6万の大友軍は高城を包囲しました。これに対して島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟が出陣し4万の兵で対抗します。
島津軍が採った戦術は、得意のおとり作戦である釣り野伏でした。これで大友軍をどんどん打ち破っていくと、大友軍も一時停戦と撤退を選択します。
しかし翌日、大友軍内部の停戦反対派の一軍が独断で島津軍を攻め始め、これに引きずられて大友本隊も戦場へ出ていきました。
結束力を失った大友軍を、島津軍は一気に包囲して撃退し、さらに耳川で追撃します(耳川の戦い)。これにより大友軍の兵士のほとんどが戦死あるいは溺死しました。
宗麟も命からがら敗走しますが、これを境に、大友氏はどんどん衰退していくことになります。最強を誇っていた大友氏ですが、理想郷の構想に囚われて求心力を失っていた宗麟は、島津兄弟の連係プレーに敗れたのです。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan