理想郷づくりが仇に…「九州三国志」最強の大友宗麟が島津に敗北するまで (1/2ページ)

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理想郷づくりが仇に…「九州三国志」最強の大友宗麟が島津に敗北するまで

九州三国志の雄・大友宗麟

戦国時代の九州三国志という言葉をご存じでしょうか。織田信長が足利義昭を追放するなどして台頭し始めていた頃、九州では五つの大名が覇を競っていまいたが、なかでも九州三強と呼ばれた北の大友・西の龍造寺・南の島津の三氏が、のちに壮絶な領土争いを繰り広げたことを指します。

今回はその中でも、大友氏がなぜ最終的に島津義久に大敗したのか、その経緯を追ってみましょう。

もともと大友氏は鎌倉時代から続く名門の家系で、三強の中でも最も強大な勢力でした。1560年には大友宗麟が家督を継ぎ、毛利氏が北九州に進出してきた折にはこれを撃破しています。

大友宗麟(Wikipediaより)

こうして北九州市の領土を盤石とした大友宗麟は、実はキリスト教に深く入れ込んでおり、このため親族との衝突が絶えなかったと言われています。

キリシタン王国建国の野望

さて、このような状況で、島津義久はもともとは大友氏と同盟関係にありました。

しかしその同盟が破れるきっかけになったのは、島津が日向の伊東義祐を攻めたことでした。義祐は大友宗麟に助けを求め、宗麟もこれを受け入れたのです。

もともと宗麟は「日向国にキリシタン王国をつくる」というすごい野望を抱いており、この一件を足掛かりにしようと考えたようです。

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