意外とめんどくさかった江戸時代の「家督相続」実は相続にはきちんと手続きがあった

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意外とめんどくさかった江戸時代の「家督相続」実は相続にはきちんと手続きがあった

武士に定年制度はありませんでした。そのため、働こうと思えば、何歳になっても働くことができました。

例えば、御家人で文人でもあった太田南畝が残した『半日閑話』には、91歳にして旗奉行をつとめた奥田土佐守という人物の名を記しています。

大田南畝肖像『近世名家肖像』(Wikipediaより)

とはいえ、嫡男がいて、50歳を過ぎた頃になると、そろそろ跡継ぎに任せて引退したらどうかと、周囲からほのめかされていたようでした。ただ、好き勝手に隠居できたわけではなく、嫡男がいる場合、次のような手順を踏んでリタイアをする必要がありました。

御目見以上の武士の場合、まずは上司に隠居を願い出て、許可をもらいます。許可が下りれば、お役御免。次に、そのお役を嫡男に継がせるために、家督相続願を提出します。

この決済が下りたのち、隠居する本人の名代と相続人は登城して、老中から隠居と相続の申し渡しを受けることになります。

平和な時代の武士にとって、「人生最大の大仕事」といえるのが、この家督相続。家督を継いだその日から、簡易や俸禄、家格・職格を維持し、いかに次の当主に受け継がせるかを考えなければなりません。

相続の形には、上記のように父親が生存中の相続をする「隠居相続」の他、亡くなってから行われると「死後相続」(跡目相続)がありましたが、いずれの場合も、幕府に家督の相続を願い出る必要がありました。

手続き上、父から子に職を譲るのではなく、あくまでも将軍から家督を与えられるという意味合いになります。

幕府の決裁が下りれば、相続の儀が江戸城中にて行わます。相続が認められるのは、あらかじめ幕府に届け出ていた嫡子に限られていました。

嫡子がいれば問題はありませんが、子宝に恵まれなかった場合は、あらかじめ養子をとる必要がありました。

家督相続を目的とする用紙には、「通例之養子」、娘と結婚させて家に迎え入れる「婿養子」、弟が兄の養子となる「順養子」、不慮の場合に備えて仮に取る「仮養子」、当主の死で急いで取る「急養子(末期養子)」といった種別がありました。

江戸時代初期、幕府は諸大名の勢力を削減すべく、「末期養子」を一切認められていませんでした。

ところが、無嗣断絶(むしだんぜつ)によって改易(所領没収)となる大名家が多く、多数の浪人が生み出されることとなってしまったため、幕府は17歳以上50歳未満の者に対して、末期養子を取ることを認めたました。

その大きな契機となったのが、1651(慶安4)に発生した、軍学者の由比正雪が浪人を率いて幕府に謀反を起こそうとした慶安事件でした。この事件は未然にふさがれたが、社会不安が増大しました。

ただし無制限に「末期養子」が認められたわけではなく、幕府から派遣された役人が直接出願人の生存を確認し、養子縁組が本人の意思なのかを確かめる「判元見届」(はんもとみとどけ)という手続きを経る必要がありました。

相続の儀が行われると、晴れて嫡男が家督と役職を引き継ぐことになります。

武士が隠居する理由は、病気または老衰になります。

ただし、70歳を過ぎていれば、病気などの理由がなくても、隠居が許されました。ちなみに、ちょんまげを結えなくなっても隠居した。ちょんまげは、武士の階級を表す印であり、月代を剃らない者は、病人か浪人に限られていました。ところが、歳とともに髪は薄くなり、次第にちょんまげが結えなくなってしまうときがきます。

こうなると、武士は隠居するか、出家の道を選ぶしかありません。なかには若くして剥げてしまい、早々に武士を引退する者もいたのだとか。

参考

太田南畝「半日閑話」日本随筆大成編輯部『日本随筆大成 第1期』第8巻所収(1993 吉川弘文館) 小川 恭一『江戸の旗本事典』(2016 角川ソフィア文庫)

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