「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【後編】

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「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【後編】

【前編】【中編】では、「徳川四天王」の一人で、一番の重臣といわれていた井伊直政と徳川家康との出会い。そして、戦国時代「男色・衆道は武士のたしなみ」ともいわれ、数々の名だたる武将が行っていた中、特別に興味を持たなかったといわれる徳川家康が、絶世の美少年の誉れ高い直政を一目で気に入り召し抱えたことなどをご紹介しました。

「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【前編】

「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【中編】

【後編】では、さらに家康の寵愛ぶりがわかるエピソードをご紹介しましょう。

負傷した直政に自ら薬を塗る

「関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館」(写真:wiki)

徳川家康が寵愛した井伊直政の初陣は、1576年(天正4年)2月の、武田勝頼との「芝原合戦」です。この戦いで、直政は家康の寝所まで入り込んだ武田の間諜数名を打ち取り、その手柄により3千石に加増されることとなりました。

その後、若くして直政は数々の戦いに参戦して功績を上げた直政

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」は、家康の信も厚い井伊直政が抜け駆けして戦いの火蓋を切ったといわれています。

そんな直政が、家康の四男・松平忠吉の初陣の後見としても出陣。乱戦の中で島津義弘の中央突破の際に銃撃され、2カ所を負傷したそうです。

負傷しつつも、戦の報告に家康の元に上がった際、家康は自分の実の息子を差し置いて直政の腕をとり、その鉄砲傷に薬を塗ったといいます。そのとき、息子の松平忠吉も負傷していたのですが、家康は忠吉には薬を塗らなかったということです。

「神君伊賀越え」で見せた直政の覚悟のほど

「伊賀越え」のルート(写真:wiki)

本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた際、摂津国堺にいた家康は、
このままでは明智軍に討ち取られる可能性が大・かつ少数の家臣しか連れていない・万が一明智軍を撒けたところで山中で一揆勢や落ち武者狩りに遭う可能性がある……などの理由から、「無様な死に様を晒す」よりは自死しようと決意。

しかしながら、本多忠勝らに説得され三河国に帰ることを決め、有名な「神君伊賀越え」を行うこととなります。

その途中、極限の空腹に状態だった家康一行は、神社の供え物であった赤飯を拝借。唯一口にしなかったのが井伊直政でした。

家康が「遠慮はいらんから食べるがよい」と勧めても、井伊直政は毅然とした態度で「敵が迫ってきたら、自分はここに踏みとどまって討ち死にする覚悟。死後に腹の中から赤飯が出たら『飢えのあまりに供え物に手を出した』と言われるでしょう。そうなれば武士の名折れです」と断固として食べませんでした。

容色に恵まれた美青年であり、なおかつ頭の回転がよく文武両道。非常にプライドが高く、ときには不遜な物言いをしてトラブルを引き起こしたこともあるという井伊直助。しかしながら戦いでは命がけで家康を守って勇猛果敢に活躍……

そんな武士としての誇り高く勇敢で忠実な性格であることも、家康が信頼を寄せかつ寵愛してやまなかった理由ではないでしょうか。

【前編】【中編】【後編】と、お読みいただきありがとうございました。

井伊直政像(左)と徳川家康像(右)

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