伝説の義賊・ねずみ小僧は変質者だった!?そのドン引きな手口と盗んだ金品の行方

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伝説の義賊・ねずみ小僧は変質者だった!?そのドン引きな手口と盗んだ金品の行方

鼠小僧治郎吉は「義賊」か?

「鼠小僧」治郎吉(次郎吉)は江戸時代末期の盗賊で、江戸の富裕層から金品を盗んで貧しい人たちに配った義賊として有名です。しかし、その実態はどうだったのでしょうか?

磯田道史の『日本史を暴く』によると、1832年に処刑された治郎吉の本当の人物像は「義賊」とはほど遠い、とんでもないものだったことが分かります。

歌川豊国 画

磯田が発見した古文書のひとつに、当時の旗本だった仁賀保孫九郎という人物の家に治郎吉が盗みに入った際の記録があったそうです。

その記録の内容がまだ衝撃的です。治郎吉は確かに武家の富裕層の家を主なターゲットにしていたのですが、そうした家の中でも、特に女性のいる部屋ばかりを狙っていたというのです。

つまり彼は、女性の家族や女中など、万が一見つかっても大丈夫なように力の弱い女子の部屋から金品を盗んでいたのでした。

磯田が見つけた史料によると、治郎吉の犯行の詳細も記されており、それによると彼は119の大名屋敷に侵入しており、犯行に及んだ部屋のうち96%が女性の居住空間だったといいます。

盗賊あるいは変質者としての実態

また、仁加保家では、賊の足跡をたどって侵入経路などを調べていますが、この調査結果がまたドン引きものです。治郎吉はわざわざ庭をうろちょろしてから、女性の便所の縁側に行き、そこから屋根を伝っていった形跡があったというのです(ちなみに治郎吉にはとび職の経験がありました)。

このあたりから、治郎吉の盗人としての「手口」というよりも、その「性癖」がなんとなく見えてくるのではないでしょうか。執拗に女性の部屋を狙って侵入しては、女性用トイレにまで潜むというその行動は、変質者のそれに近いものがあると言えるでしょう。

さて、ではそんな鼠小僧・治郎吉は「義賊」だったのかどうかですが、これも磯田の発見した資料にきちんと記録が残っていました。

彼が盗んだ金銭の総額は「三千三百八拾弐両壱分程也」とも「金一万弐千両程」とも書かれており、それらの金は全て悪所場(遊里と芝居町)や盛り場で飲酒・遊興・博打に使われたというのです。

伝説の通りに彼の盗んだ金銭が庶民にばら撒かれた形跡は、一切ありませんでした。

伝説の起源

鼠小僧治郎吉の墓

では、こんな男がなぜ後世で義賊と言われるようになったのでしょうか。

これについて磯田は、「江戸庶民の権力者への反感」があったのではないかと述べています。こうした反感がもとになって、武家の威信を傷つける悪のヒーローを心待ちにするような心理が、当時の庶民にはあったのでしょう。

実際、幕府が倒れたのは鼠小僧・治郎吉が処刑されてからたった35年後のことです。

参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

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