守るために戦いを選んだ!非戦闘員と共に敵軍を16回退けた女性「妙林尼(みょうりんに)」の決死の戦い (2/3ページ)
大友家の拠点・豊後国に兵を向けました。
戸次川の戦いで勝利したこともあり、島津家久率いる島津軍は、大友宗麟のいる臼杵城と妙林尼のいる鶴崎城へ侵攻してきました。
城主不在の中戦いを選んだ妙林尼鶴崎城の城主は、鑑興の孫・吉岡統増でした。しかし、統増は宗麟のいる臼杵城に従軍しており、兵士たちも臼杵城に移していました。
そのため、鶴崎城には妙林尼の他に女、子供と老兵ばかり。3000人で迫ってくる島津軍を前には、降伏は必須でした。
しかし、妙林尼は徹底抗戦を決意。早急に火縄銃の使い方や罠の設置などで鶴崎城の防御を固めました。
その甲斐あってか、島津軍を16回も退ける戦ぶりを見せます。なかなか落とせない鶴崎城を前に、鶴崎城を攻めていた野村文綱は和睦を提案します。妙林尼も和睦を受け入れ、鶴崎城を文綱たち島津軍に明け渡しました。
相手を油断させて63人を討ち取る
妙林尼は鶴崎城にいる文綱たちにお酒をふるまい手厚くもてなしました。そして、天正15年(1587)に、豊臣秀吉が島津軍討伐のために九州に来ていることを知ると、文綱は撤退しました。
そこに妙林尼は、島津家に寝返ることを伝え、文綱の元に行くことを伝えます。
それに気をよくした文綱たちは、祝賀と称した宴会で大量のお酒を飲まされました。
