血で血を洗う戦いの始まりから収束まで…織田信長と本願寺が対立し続けた理由とその経緯【後編】

Japaaan

血で血を洗う戦いの始まりから収束まで…織田信長と本願寺が対立し続けた理由とその経緯【後編】

壮絶な殺戮合戦へ

【前編】では、本願寺の顕如と織田信長が対立し、激突するまでの流れを解説しました。

血で血を洗う戦いの始まりから収束まで…織田信長と本願寺が対立し続けた理由とその経緯【前編】

さて、顕如が門徒に出した檄文の効果は抜群で、各地の一向宗の信徒たちは続々蜂起して信長を襲います。何せ、彼らは死ねば極楽へ行けると信じているので命を惜しむことがなく、下手な武将よりも手に負えなかったといいます。

さしもの信長もこの信仰心には悩まされ、戦いはなかなか決着しません。特に長島一向一揆では、信長の弟である信興や他の重臣たちも討ち死にしています。

そこで信長は1571年には天台宗の比叡山延暦寺に焼き討ちを行い、1575年の越前一向一揆に至っては信者一万人を殺しています。血で血を洗う戦いとはまさにこのことです。

運命の岐路

そして越前一向一揆の翌年、1576年に、顕如はついに足利義昭からの呼びかけを受けて三回目の挙兵を試みました。ここが彼にとって運命の分かれ道になります。

この時、本願寺には強力な味方がついていました。毛利氏と村上水軍です。木津川を通って本願寺へ兵糧を運搬しているところで信長がこれを叩こうと動きましたが、村上水軍による炮烙火矢にはかなわず、信長も一時撤退しました。

村上水軍関係の歴史資料が展示されている因島水軍城

しかし信長も負けてはおらず、1578年には全体を鉄で覆った鉄甲船を投入。村上水軍からの火矢を蹴散らしながら大砲で攻撃を加え、水軍を撃沈させました。

これが決定打となり、本願寺は補給路を断たれる結果となります。しかも、それに追い打ちをかけて、同盟者である上杉謙信が亡くなるなどしたことから、ついに本願寺は孤立無援の状態に陥ります。

そして現代へ…

こうなるとどうしようもありません。1580年3月、顕如は信長に降伏し、彼らは本願寺を退去します。そしてそれから間を置かず、なぜか本願寺は原因不明の火災によって焼け落ちました。

こうして10年間に渡る信長と本願寺の戦いは終結したのですが、実際にはもう少しいざこざがあったようです。顕如の長男である教如は、降伏することに反対し、父親がいなくなった後もしばらくの間、本願寺に立てこもっています。

現在の東本願寺

そして顕如が没した後は三男である準如が法主を継ぎ、長男の教如は独立して東本願寺を建てます。これに対して、准如がいる寺は西本願寺として位置づけられることになり、こうして現在の二つの本願寺の原型ができあがったのでした。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「血で血を洗う戦いの始まりから収束まで…織田信長と本願寺が対立し続けた理由とその経緯【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、本願寺浄土真宗戦国時代織田信長仏教カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る