「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】
1600年に起きた、関ケ原の戦い戦。この戦いで、徳川家康は西軍の石田三成らを破り、その3年後の1603年には、江戸幕府を開府、徳川氏による政権を樹立しました。
天下分け目の戦いと称され、260年も続く江戸幕府開府の決定打となったにもかかわらず、関ケ原の戦いには数々の謎が隠されています。
そんな関ケ原の合戦史に一石を投じたのが、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏が2020年に唱えた新説でした。
今回は、千田氏の説に焦点をあてつつ、筆者の持論を含め関ケ原の戦いを3回に分けてお話しします。第1回目の【前編】では、関ケ原の戦いの概要と千田氏の新説の序章を紹介します。
関ケ原は家康の野望から豊臣家を守る正義の戦い関ケ原の戦いは、通説では、石田三成に敵対する福島正則などの豊臣恩顧の諸大名を味方に引き入れた家康が、同じく豊臣家と縁が深い小早川秀秋らの裏切りを画策し、圧勝したことになっています。
西軍敗戦の主な理由として語られるのが、人望がなく所領も少ない石田三成では、到底、250万石の巨大大名・徳川家康の敵ではなかったということです。
そして、関ケ原の戦いの研究資料の多くは、勝者である東軍側が残したものがほとんどのうえ、江戸時代の260年にわたり、神君家康に盾突いた石田三成らは天下の謀反人として扱われていたのです。
しかし、現在では多くの研究者や歴史家の間で、関ケ原の戦いは、敗者である三成ら西軍にこそ正義があったと考えられるようになりました。なぜなら家康は豊臣政権に属し、豊臣秀頼に仕える五大老筆頭という立場にいました。その家康が、この合戦での勝利を境に、豊臣家を滅亡に追い込んでいくからです。
もちろん、多くの豊臣恩顧の大名たちは関ケ原の戦い当時に、家康の野望に気付いていたはずです。確かに、秀吉が行った朝鮮出兵では、石田三成ら文治派と、福島正則・加藤清正ら武断派との間に深刻な対立が生じました
しかし、豊臣家恩顧の者なら、あからさまな野望を抱く家康に「NO」を突き付けられるのかどうかで、豊臣家に対する本物の忠誠心が分かります。
加藤清正や福島正則は確かに優れた武将なのでしょう。でも、関ケ原の戦いで三成ら文治派を一掃した後に、豊臣秀頼を盛り立てようと考えていたとしたら、先を読む能力に欠けていたと言われても仕方がないでしょう。事実、彼らは秀頼を守ろうと頑張りますが、全て後手後手にまわり、最後は秀頼を見殺しにしてしまうのです。
そう考えると、最後まで西軍として戦い、滅びていった石田三成・大谷吉継らの大名たちは、まさしく豊臣家のために正義を貫いたといえるでしょう。
家康の天下取りと江戸幕府開府のきっかけとなった合戦
先ずは、簡単に関ケ原の戦いの推移をお話ししましょう。上杉景勝討伐のため、会津に出陣した家康は、小山の陣で石田三成ら西軍の挙兵を知ります。これが関ケ原の戦いのおおよそ1ヵ月前のことでした。
急遽、江戸に引き返した家康は、決戦に備えて兵力を温存するとともに、福島正則・黒田長政ら豊臣恩顧の大名約4万を清須城に前進させます。
福島正則は、風邪と称して江戸から動かない家康に疑念を持ちつつも、長政の「内府は自分たちの忠誠心を試しているのでは」という言葉にのり、軍を動かし西軍の一拠点岐阜城を攻略します。
この報を受けた家康は、3万の軍を率いて江戸を出陣、石田三成がいる大垣城に向かいます。一方、石田三成は大垣城を出て、関ケ原に入ると、大谷吉継・毛利秀元・宇喜多秀家ら西軍の諸大名は続々と関ケ原に集結し、それぞれ持ち場に布陣しました。
そして、1600年9月15日、関ケ原にて東西両軍が激突。当初は、西軍が奮闘したものの、小早川秀秋・吉川広家などの裏切りにより、東軍が圧勝。わずか1日で天下分け目の戦いは終了しました。
戦後処理として、石田三成・小西行長・安岡寺恵瓊らは処刑され、宇喜多秀家・長宗我部盛親らも改易となります。こうして、家康は豊臣政権内の反発分子を排除し、新たな国づくりに着手していったのです。
三成らにより主戦場として用意周到に準備された関ケ原なぜ、関ケ原が両軍の決戦場になったのかについては、多くの説があります。大垣城・佐和山城の陥落を恐れた三成ら西軍が関ケ原に進出し、偶発的にここが決戦場になったのとの説も語られてきました。
しかし、それは真実でしょうか。石田三成ら西軍諸将は、この戦いに敗れれば、主家である豊臣家は家康により危うい立場に追い込まれることを確信していました。事実、約10年後の大坂の陣で、豊臣家は家康により滅亡の憂き目にあっています。
だからこそ、家康討伐の戦いを起こし、そして絶対に勝利しなければならない。そのために、あらかじめ関ケ原を決戦地として用意周到に準備を行い、豊臣家を守るための万全な必勝態勢を敷いていたはずです。
このように西軍が、関ケ原そのものを当初から決戦場として想定していたとの説を唱えたのが、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏でした。
千田氏は、その根拠を航空レーザ測量により確認された、現在も関ケ原周辺に残る山城・玉城をはじめ、松尾山城などの陣城群に求めました。
では、【前編】はここまで。次回【中編】では、千田氏の新説に基づき、石田三成・大谷吉継らが立てた関ケ原の合戦における戦術・戦略についてお話ししましょう。
※参考文献:新説戦乱の日本史[最新研究]SB新書
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