「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】 (1/5ページ)

Japaaan

「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】

1600年に起きた、関ケ原の戦い戦。この戦いで、徳川家康は西軍の石田三成らを破り、その3年後の1603年には、江戸幕府を開府、徳川氏による政権を樹立しました。

天下分け目の戦いと称され、260年も続く江戸幕府開府の決定打となったにもかかわらず、関ケ原の戦いには数々の謎が隠されています。

そんな関ケ原の合戦史に一石を投じたのが、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏が2020年に唱えた新説でした。

今回は、千田氏の説に焦点をあてつつ、筆者の持論を含め関ケ原の戦いを3回に分けてお話しします。第1回目の【前編】では、関ケ原の戦いの概要と千田氏の新説の序章を紹介します。

関ケ原は家康の野望から豊臣家を守る正義の戦い

関ケ原の戦いは、通説では、石田三成に敵対する福島正則などの豊臣恩顧の諸大名を味方に引き入れた家康が、同じく豊臣家と縁が深い小早川秀秋らの裏切りを画策し、圧勝したことになっています。

徳川家康

西軍敗戦の主な理由として語られるのが、人望がなく所領も少ない石田三成では、到底、250万石の巨大大名・徳川家康の敵ではなかったということです。

「「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、関ケ原の戦い豊臣秀頼徳川家康戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る