「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【中編】

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「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【中編】

1600年に起きた、関ケ原の戦い。この戦いで、徳川家康は西軍の石田三成らを破り、その3年後の1603年には、江戸幕府を開府、徳川氏による政権を樹立しました。

天下分け目の戦いと称され、260年も続く江戸幕府開府の決定打となったにもかかわらず、関ケ原の戦いには数々の謎が隠されています。

そんな謎多き合戦史に一石を投じたのが、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏が2020年に唱えた新説でした。第2回となる【中編】では、千田氏が航空レーザ測量で再発見した山城・玉城と、三成ら西軍が立てた関ケ原における必勝の布陣についてお話しします。

前編の記事はこちら

「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】

千田嘉博氏による巨大陣城・玉城の再発見

2020年12月4日、NHK BS放送で従来の関ケ原の合戦史に大きな一石を投じる番組、NHK BSプレミアム『決戦!関ケ原』が放映され、大きな反響を呼びました。ここで、語られたのは、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏が行った航空レーザ測量による、関ケ原古戦場の調査結果でした。

航空レーザ測量とは、航空機からレーザを照射し、山に茂る樹木の間を抜けて地表にあたって反射したデータを集積し、それにより赤色立体地図を作る技術です。この方法の大きな利点は、詳細な三次元地形データにより、山に存在した城郭の堀・土塁・曲輪・虎口などを高精度に把握できることです。

NHKによる玉城の赤色立体地図

そして、この調査により、従来の関ケ原の合戦史の概念を大きく変えるかもしれない発見がありました。いや、正確に言えば再発見ということになるかもしれませんが、関ケ原古戦場の開戦地から西方2kmほどに位置する山城・玉城(たまじょう)の山頂に、巨大な陣城の痕跡を発見したのです。

玉城縄張り図

玉城の歴史は室町時代までに遡りますが、赤色立体地図により判読されたのは、その山頂にある長辺256mにもおよぶ巨大な本丸と、その周囲の比高差20mに達する人工的な切岸でした。さらに、本丸の切岸下には、西・南面に帯曲輪が配されていたのです。

これは中世の城館ではありえない規模でした。明らかに関ケ原の戦い前に、西軍の手により巨大陣城としての大改修が行われていたのです。千田氏は、玉城を関ケ原における西軍の中心的な拠点と位置付けました。玉城こそ、西軍主将が指揮を執る中心拠点と考えたのです。

玉城本丸創造復元図

家康を誘い出し壊滅させる西軍の陣城群

関ケ原は周囲を山々に囲まれた盆地です。数に劣る軍勢が大軍を誘い込んで、その動きを封じて叩く地形として、これほどふさわしい場所はありません。

千田氏は、玉城の発見により、石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家ら西軍首脳たちは、玉城を中心として、北に菩提山城・笹尾山、南に松尾山城・南宮山という防衛・戦術ラインを敷き、その間に東軍を引き込み壊滅するというプランを、かなり早い時期から立てていたと推測したのです。

玉城を中心とする西軍陣城図

上の図をご覧ください。笹尾山には石田三成の陣城、松尾山には小早川秀秋の陣城、南宮山には毛利勢その他、そして菩提山城にも兵を置き、桃配山の徳川家康本陣を完全に包囲しているのです。

東軍がこの狭い地形に大軍を進めれば、周囲の山に築かれた陣城から一斉に攻撃を受けることは明らかでした。

徳川家康が関ケ原方面に進出したという報を受けた石田三成・宇喜多秀家ら西軍の大軍は、急ぎ大垣城を出て関ケ原に布陣します。これは夜間、それも雨が降りしきる中での高速移動でした。

この時、西軍首脳たちは「してやったり」という思いでいたのでしょう。自分たちが敷いた必勝の布陣に家康が嵌ったのです。戦いの機は熟しました。しかし、ある1点を除いては……。

【中編】はここまで。最終回の【後編】では、必勝を期して関ケ原に布陣した西軍が直面した誤算と、それがもたらした敗戦についてお話しします。

※参考文献:新説戦乱の日本史[最新研究]SB新書

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