九州の総力戦!戦国時代、豊臣秀吉による「惣無事政策」で追い詰められた島津氏の運命

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九州の総力戦!戦国時代、豊臣秀吉による「惣無事政策」で追い詰められた島津氏の運命

惣無事政策を口実にされる

戦国時代の流れを見ていくと、ひとつ感心するのが九州の島津氏の強さです。この一族は九州統一を目前にして秀吉に屈したことになるのですが、なぜあれほどの勢力を誇った島津が最後には降伏したのでしょうか。その流れを追っていきましょう。

戦後に作られたとされる豊国神社の秀吉坐像

小牧・長久手の戦いで織田信勝と徳川家康との争いにケリをつけた秀吉は、1585年には紀伊方面を平定。さらに四国地方をほぼ制圧していた長宗我部元親も降伏させ、次の目標が九州地方でした。

当時の九州では島津氏の勢力が北九州まで拡大していましたが、まだ大友宗麟も豊後を拠点としてわずかに勢力を残していました。

秀吉が関白に任じられたのは四国攻めの最中でしたが、彼は惣無事政策として大名同士が戦うことを禁じる政策を推進していました。島津氏はそれでも戦いをやめなかったため、惣無事違反として征伐することになったのです。

今の時代から見れば「おまゆう案件」というやつですが、それはともかく秀吉から占領地を返還するように求められた島津氏は、交渉を打ち切って対立を決定的なものとします。

島津氏としては、自分のところは鎌倉時代から続く名門家であるという矜持もあったのでしょう。

総力戦の果て

さて1568年4月、秀吉軍に大友軍が合流する形になって、秀吉の九州攻めがスタートしました。

秀吉軍の軍勢は強大なもので、毛利氏を筆頭とする西国大名が総動員されたといいます。

この戦いは一年ほど続き、最初こそ島津氏が地の利を生かして粘り強く抗い続け、12月には秀吉軍と島津軍の戦いの中で長宗我部信親が戦死するなどしています。

そして、翌年の1587年3月にはついに秀吉が自ら九州へ赴きました。

この時点で秀吉軍の勢力は20万。島津方の城を次々に落として進軍していき、ついに4月末には薩摩国にまで侵攻します。

こうなってはなすすべもありません。島津氏は降伏し、最終的には薩摩と大隅が安堵されることになりました。島津義久が剃髪して秀吉に謝罪するシーンは、現在も鹿児島県薩摩川内市の泰平寺で銅像として残されています。

島津義久が剃髪して秀吉に謝罪するシーンの銅像

これが、島津氏が敗北した経緯であると同時に、秀吉が関東以東の制圧のために動き始めるスタートとなったのです。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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