「関ヶ原の合戦はなかった」戦国史に浮上した新説の「真相」とは?
慶長五年(1600)九月一五日に天下分け目となった「関ヶ原の合戦」はなかったと――いえば、驚くだろうか。通説が次々に覆される戦国史の中でも新しい論点の一つだ。この問題を検証してみよう。
まずは通説に基づき、美濃大垣城に籠った石田三成が、籠城戦を苦手とする徳川家康をおびき寄せて叩き潰そうとしたあたりから順を追っていこう。
もともと籠城戦を考えていた三成だが、合戦前夜の一四日、家康が東軍諸将より数日遅れて中山道赤坂宿(岐阜県大垣市)に着陣するや、当初の作戦を捨て、西軍諸将は夜陰に乗じて城を出た。東軍より有利な陣形を敷くのがその理由だとしている。
確かに、一般的に紹介される両軍の布陣図を見ると、西軍は、鶴が大きく翼を広げた陣形( 鶴翼の陣)をとり、東軍はその広げた翼の真っ只中に突っ込んで布陣している。
これだと、西軍が両翼を閉じて東軍の動きを封じ込めたら、東軍は確実に殲滅される。明治維新後、陸軍大学校の教官として来日していたドイツ陸軍のメッケル少佐がこの布陣図を見て、ただちに「西軍が勝った」と述べたという話は有名だ。
しかし、鶴翼の片方の翼の位置( 南宮山)に布陣した毛利勢が家康の調略に遭い、兵を動かさなかったことが東軍勝利の一因になったといわれる。
毛利家の分家に当たる吉川広家のところに家康の重臣井伊直政と本多忠勝が血判状をもたらし、「合戦で徳川への忠節をみせてくれたら毛利の本領は安堵する」と伝え、広家がこの話に乗ったとされるからだ。
ところが、現在、一般的に用いられる関ヶ原の布陣図は、大日本帝国陸軍参謀本部編の『日本戦史』を踏襲。一次史料に対応して作られた布陣図でなく、実際に西軍が鶴翼の陣を敷いたかどうかは不明だ。
また、歴史家の白峰旬氏は島津家家臣の史料に基づき、三成ら西軍主力メンバーは鶴翼の陣どころか、逆に密集して布陣していたと論じ(「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」/『史学論叢』46号)、こうして西軍が有利な陣形を敷くために大垣城を出たという前提が崩れてきたのだ。
そこで次に問題になるのが「問鉄砲」だ。関ヶ原のはずれ、山中村の松尾山に布陣した小早川秀秋は開戦前に東軍への寝返りを約束していたが、合戦が始まっても、なかなか陣から動こうとしなかった。
そこで焦れた家康が一斉射撃を命じるや、秀秋はこの恫喝に怯え、麓の西軍陣地へ討ちかかった――この有名な逸話を「問鉄砲」という。
しかし、一次史料でこの逸話も確認できず、今では史実かどうか疑われている。また、秀秋が開戦と同時に寝返り、東軍として戦ったことを窺わせる史料もある。
イエズス会の宣教師が本国へ送った『一六〇〇年度日本年報補遺』に「始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様(家康)の軍勢へ移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前国をもらっていた中納言がいた(秀秋のこと)」とある。
途中で寝返ったのだとしたら、こういう表現にはならない。秀秋は毛利の分家に当たる小早川家の養子に入っているものの、北政所(秀吉の正室おね)の甥に当たる。
実は八月二八日に、東軍の先陣として美濃へ進軍していた浅野幸長と黒田長政から密書が秀秋へ届けられ、「二、三日したら内府公が美濃に入るので御忠節することが重要」「われら両人は北政所様のために動いているのでこのような書状を送った」と伝えていたのだ。
幸長は彼女の甥。長政も幼少のころに織田信長の人質となって、当時、その武将だった秀吉に身柄を預けられ、北政所に養育された。家康が北政所の縁つながりで東軍方の幸長と長政に秀秋を調略させたわけだが、彼女が家康を支持していたかどうかいまひとつはっきりせず、彼らの動きが本当に北政所のためであったかどうかは不明だ。
ただ、彼らが彼女の名前を出したことが功を奏したようだ。合戦前日の一四日、家康の重臣本多忠勝と井伊直政の両名から小早川家の家老二名に宛てに「内府は秀秋を疎かにしない」「忠節をみせてくれたら秀秋に西国で二ヶ国の知行宛行状を与えよう」という起請文が差し出されたところを見ると、秀秋は幸長と長政の要請に応じたのだろう。
■関ヶ原の合戦ではなく「山中之合戦」だった!?
一方の三成は、大垣城はもとより、松尾山にも新たな城を築き、家康に苦手な城攻めを強いる作戦だったとされる。偽文書説が囁かれているものの、「松尾新城」という言葉が登場する史料もある。三成は伊藤盛正(大垣城主)を松尾山の守備につかせていたとされ、秀秋がその伊藤勢を追い払って松尾山に着陣したことから、その時点で西軍は作戦を見直さざるをえなくなったのだ。
さらに、その後、小早川勢の裏切りが確実になったと確信したのだろう。つまり三成らは、有利な陣形を敷くために大垣城を出たのでなく、裏切りが確実になった秀秋を討つために夜陰に乗じて城を出て松尾山を望む山中村に布陣した――山中村が主戦場だったという解釈が成り立つわけだ。
実際に吉川広家は合戦直後の自筆の書状(案文)などで「筑中(秀秋)の御逆意によって大柿(垣)衆(西軍)は山中に赴いた」とあり、関ヶ原の合戦ではなく、「山中之合戦」と呼んでいる。主戦場が山中村なのだから「関ヶ原の合戦はなかった」――というわけだ。
ただし、山中村が主戦場だったとする説を実証するには、江戸時代に書かれた関ヶ原合戦の布陣図との整合性の他、まだまだ課題が多い。
歴史学者の笠谷和かず比ひ古こ氏は書状に出てくる「山中」について、「山中村」という地名ではなく、あくまで「山中」という固有名詞だとする。
平野がひらけた大垣方面から西へ向かうと、次第に山が迫り、「山中の地」という印象を抱きやすい。
したがって土地勘のない広家が後に関ヶ原と呼ばれるようになる土地を「山中」と呼んだに過ぎないというのだ。
したがって、今のところはまだ、確実に「関ヶ原の合戦はなかった」とは言えないことになる。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。