「関ヶ原の合戦はなかった」戦国史に浮上した新説の「真相」とは? (1/4ページ)
慶長五年(1600)九月一五日に天下分け目となった「関ヶ原の合戦」はなかったと――いえば、驚くだろうか。通説が次々に覆される戦国史の中でも新しい論点の一つだ。この問題を検証してみよう。
まずは通説に基づき、美濃大垣城に籠った石田三成が、籠城戦を苦手とする徳川家康をおびき寄せて叩き潰そうとしたあたりから順を追っていこう。
もともと籠城戦を考えていた三成だが、合戦前夜の一四日、家康が東軍諸将より数日遅れて中山道赤坂宿(岐阜県大垣市)に着陣するや、当初の作戦を捨て、西軍諸将は夜陰に乗じて城を出た。東軍より有利な陣形を敷くのがその理由だとしている。
確かに、一般的に紹介される両軍の布陣図を見ると、西軍は、鶴が大きく翼を広げた陣形( 鶴翼の陣)をとり、東軍はその広げた翼の真っ只中に突っ込んで布陣している。
これだと、西軍が両翼を閉じて東軍の動きを封じ込めたら、東軍は確実に殲滅される。明治維新後、陸軍大学校の教官として来日していたドイツ陸軍のメッケル少佐がこの布陣図を見て、ただちに「西軍が勝った」と述べたという話は有名だ。
しかし、鶴翼の片方の翼の位置( 南宮山)に布陣した毛利勢が家康の調略に遭い、兵を動かさなかったことが東軍勝利の一因になったといわれる。
毛利家の分家に当たる吉川広家のところに家康の重臣井伊直政と本多忠勝が血判状をもたらし、「合戦で徳川への忠節をみせてくれたら毛利の本領は安堵する」と伝え、広家がこの話に乗ったとされるからだ。
ところが、現在、一般的に用いられる関ヶ原の布陣図は、大日本帝国陸軍参謀本部編の『日本戦史』を踏襲。一次史料に対応して作られた布陣図でなく、実際に西軍が鶴翼の陣を敷いたかどうかは不明だ。