「鍵屋の辻」で知られる江戸の剣豪・荒木又右衛門「毒殺説」の真相

日刊大衆

写真はイメージです
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 荒木又右衛門は講談などで「三六人斬り」として知られる江戸時代初めの剣豪。幕末に幕府陸軍総裁を務めた勝海舟が『陸軍歴史』で、こんな話を紹介している。

 三代将軍徳川家光の時代の寛永一一年(1634)九月、全国から剣豪が集められた「寛永御前試合」で、又右衛門が宮本伊織(宮本武蔵の養子)と対戦し、相打ち(引き分け)に終わったというのだ。

 さらに彼は日本三大仇討ちの一つ、「鍵屋の辻(三重県伊賀市)」の仇討ちで名を馳せつつも、その死があまりにあっけなかったことから毒殺説などが流れた。

 講談などで語られる剣豪の実像と死の謎を追った。

 又右衛門が伊賀国荒木村(前同)で生まれたのは確かだろう。生年は慶長三年(1598)だとされる。本姓は服部。父の平左衛門は伊賀を治めていた藤堂高虎に仕えていたが、浪人したのち、岡山藩主池田忠た だ雄か つ(母は徳川家康の娘)の家臣となった。

 その岡山藩に渡辺数馬という藩士がいて、その姉を娶ったことが後に又右衛門の人生を決定づける。

 一方、次男だった彼は桑名藩士へ養子に出され、藩主の松平忠政が姫路へ移封されたあと、理由は不明ながら浪人した。

 その後、又右衛門は郷里の伊賀へ戻り、姓を出身地の地名にちなみ、荒木と改めたというのが通説だ。

 ただし、通説は一五歳のとき、かの剣豪柳生十兵衛( 三厳)の弟子となり、柳生新陰流を会得したとするが、十兵衛は又右衛門より六歳年下だから、当時わずかに九歳。さすがにその年で弟子を取れるはずはない。又右衛門が十兵衛の弟子になったとしたら、彼が浪人したあとの話だろう。

 というのも伊賀と柳生の里(奈良市)は距離的に近く、その頃、十兵衛は柳生で暮らしていたからだ。

 やがて又右衛門は剣の腕前を見込まれ、大和郡山藩主松平忠明に剣術指南として招かれた二年後のこと。ある事件が起きた。

 寛永七年(1630)七月二一日の暮れ。岡山藩士河合半左衛門の息子、又五郎が藩主池田忠雄の小姓、渡辺源太夫を殺害したのである。

 通説では又五郎が藩主忠雄の寵童だった源太夫に男色の関係を迫り、断られて逆上したという。

 殺された源太夫は渡辺数馬の弟。この数馬も源太夫も又右衛門の妻の弟たちに当たる。

 こうして又右衛門は郡山藩の剣術指南役を辞してまで、義弟の仇討ちに加勢することになった。この義理堅い彼の性格が後に講談で語られ、英雄視される素地になったのだろう。

 しかし、この仇討ちは逆縁だった。仇討ちというのは家臣が主君の、あるいは子が親の、さらには弟が兄のと、上位の者の無念を晴らすのが原則。逆縁は認められていなかった。

 ところが、息子が処罰されることを恐れた河合半左衛門が池田家と不仲の旗本安藤家へ又五郎を逃がし、藩主の忠雄を激怒させたことで事態は急展開する。

 池田家が又五郎の身柄引き渡しを求めたものの、安藤家では身柄を引き渡さず、愚弄されたと思った藩主忠雄は幕府の老中に対して、又五郎らの身柄を渡すまでは「登城つかまつりまじく」と訴え出たのだ(『渡辺数馬敵打次第』)。

 忠雄は徳川家康の孫に当たる。当然幕府は慌てた。かといって、当時はまだ戦国の気風が残っている時代だったから、旗本の安藤家も譲らない。

 一方、池田家の縁戚には徳島の蜂須賀家、仙台の伊達家と錚々たる外様大名が控えている。こうして、事件は旗本と外様大名の対立へと発展したのだ。やがて藩主忠雄が、旗本の安藤家へ意趣を残したまま疱瘡のために死去。次の藩主光仲はまだ幼少だという理由で岡山から鳥取へ国替えを命じられた。仇討ち問題で世間を騒がしたことへの責任を取らされた形でもあった。

 こうして数馬には上意討ちの名目が与えられ、鳥取藩内でその大願成就に期待が集まったのだ。

 又右衛門と数馬は又五郎を探し回り、寛永一一年(1634)一一月五日の夜、ようやく彼が奈良にいることをつかんだ。

 ちなみに、例の「寛永御前試合」があったのはこの一カ月半前。よって、又五郎の行方を追っていた又右衛門が御前試合に出るはずがなく、史実とは認められない。

■鳥取で10年間の余生!?死亡偽装存命説もある

 さて、又五郎が伊賀越えで江戸へ向かうと知った又右衛門ら四名は七日の朝、地の利のある伊賀で待ち伏せることとし、奈良街道と伊勢街道が交差する「鍵屋の辻」をその場所に決めた。

 一方の又五郎も叔父の河合甚左衛門らに助太刀を願い、総勢一一名。結果、六時間といわれる激闘の末、数馬は仇討ちを成し遂げるが、又五郎方で討ち取られたのは四名のみ(数馬方も一名死亡)。又右衛門が斬ったと言えるのは二人だけで「三六人斬り」というのも講談による脚色だ。

 話を戻すと、こうして仇討ちを遂げた又右衛門ら三名の身元はいったん、地元の藤堂家に預けられた。

 しかし、池田家にとって彼らは前藩主の意趣を晴らした英雄たちだ。三年四ヶ月の歳月を経て池田家の要望が幕府に聞き届けられ、寛永一五年(1638)八月一三日、一六〇余名の藩士らに護送され、一行は鳥取に到着した。ところが、その一五日後、又右衛門が急死するのである。

 彼が安藤家をはじめ旗本たちから命を狙われる恐れがあり、騒動を恐れた池田家に毒殺されたという噂の他、それとは逆に、安藤家らの魔の手から又右衛門を守るために死んだことにしたという存命説もある。

 また、存命説の理由の一つとして、もともと又右衛門は大和郡山藩の剣術指南役であったため、上意討ちに功績のあった英雄の身柄をどこにも渡したくない池田家が郡山藩に虚偽の報告を行ったともいわれる。はたして真相はどうなのだろうか。

 江戸時代後期に編纂された鳥取藩の編纂史料によると、慶安元年(1648)正月、藩から又右衛門の養子に知行二〇〇石と又右衛門の妻に五人扶持が給与されたという。その年に彼が死んだために養子への相続と未亡人への配偶者給付が行われたのだとすれば、存命説が証明できる。

 理由はともあれ、もしその年まで又右衛門が鳥取で一〇年間の余生を過ごしたとしたら、何を思い、何をしていたのだろうか。史料は何も語らない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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