「鍵屋の辻」で知られる江戸の剣豪・荒木又右衛門「毒殺説」の真相 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 荒木又右衛門は講談などで「三六人斬り」として知られる江戸時代初めの剣豪。幕末に幕府陸軍総裁を務めた勝海舟が『陸軍歴史』で、こんな話を紹介している。

 三代将軍徳川家光の時代の寛永一一年(1634)九月、全国から剣豪が集められた「寛永御前試合」で、又右衛門が宮本伊織(宮本武蔵の養子)と対戦し、相打ち(引き分け)に終わったというのだ。

 さらに彼は日本三大仇討ちの一つ、「鍵屋の辻(三重県伊賀市)」の仇討ちで名を馳せつつも、その死があまりにあっけなかったことから毒殺説などが流れた。

 講談などで語られる剣豪の実像と死の謎を追った。

 又右衛門が伊賀国荒木村(前同)で生まれたのは確かだろう。生年は慶長三年(1598)だとされる。本姓は服部。父の平左衛門は伊賀を治めていた藤堂高虎に仕えていたが、浪人したのち、岡山藩主池田忠た だ雄か つ(母は徳川家康の娘)の家臣となった。

 その岡山藩に渡辺数馬という藩士がいて、その姉を娶ったことが後に又右衛門の人生を決定づける。

 一方、次男だった彼は桑名藩士へ養子に出され、藩主の松平忠政が姫路へ移封されたあと、理由は不明ながら浪人した。

 その後、又右衛門は郷里の伊賀へ戻り、姓を出身地の地名にちなみ、荒木と改めたというのが通説だ。

 ただし、通説は一五歳のとき、かの剣豪柳生十兵衛( 三厳)の弟子となり、柳生新陰流を会得したとするが、十兵衛は又右衛門より六歳年下だから、当時わずかに九歳。さすがにその年で弟子を取れるはずはない。又右衛門が十兵衛の弟子になったとしたら、彼が浪人したあとの話だろう。

 というのも伊賀と柳生の里(奈良市)は距離的に近く、その頃、十兵衛は柳生で暮らしていたからだ。

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