三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】

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三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】

酔いどれサムライ

本多忠真 ほんだ・ただざね
[浪岡一喜 なみおかかずき]

松平家のために代々身を捧げてきた本多家の武将。叔父として忠勝に武芸を徹底的にたたき込み、最強武士に育てた。昼間から徳利を片手に酒を飲み、酔っているのか正気なのかわからないが、戦場ではスイッチが入ったように体が動く。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより。

いつも酒ばかり呑んでいる本多忠真(演:浪岡一喜)。序盤は何かと甥っ子の本多忠勝(演:山田祐貴)に「あほたわけ!」と連呼していましたが、近ごろは酒の飲み過ぎが祟ったらしく、もう戦場には立てないそうな。

(※あくまで劇中の設定です。そもそも本多忠真が酒ばかり飲んでいたという史料や文献は寡聞にして存じません。もしご存じでしたらご教示願います)

でも、徳川家存亡の危機となればそんなことは言っていられません。覚束ない足元を踏みしめて、毅然と武田信玄(演:阿部寛)の軍勢に立ち向かうのでした。

叔父の薫陶を受け、立派に成長した忠勝。忠真「後は、任せたぞ……!」歌川芳虎筆

世にいう三方ヶ原の合戦(元亀3・1572年12月22日)で討死した本多忠真は、果たしてどのような最期を遂げたのでしょうか。さっそく文献を読んで調べましょう。

迫りくる武田軍を相手に大暴れ

まずは江戸幕府の公式記録である『徳川実紀(東照宮御実紀)』と同附録を読んだのですが、三方ヶ原の合戦の場面に本多忠真は登場しませんでした。

それでは概ね同時代を生きていた徳川家臣・大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざゑもん。大久保忠世の弟、大久保忠教)の書いた軍記物語『三河物語』はどうでしょうか。

……御手前之衆尓ハ。青木又四郎殿(青木貞治)。中根平左衛門(中根正照)斗。物主ハ打死仕候。其外若き衆家老共ハ鳥居四郎左衛門(鳥居忠広)。本多ひ後守(本多忠真)。賀藤◆ねの丞(加藤利正)。同九郎次郎(加藤正信)。ゑのきづ小太夫(米津政信)。大久保新蔵(大久保忠寄)。河井やつと兵へ(詳細不明)。杉之原ナつと兵へ(詳細不明)。榊原摂津守(榊原忠直)。成瀬藤蔵(成瀬正義)。石河半三郎(数正一族?)。夏目次郎左衛門(夏目広次)。河井又五郎(詳細不明)。松山久内(詳細不明)。賀藤源四郎(加藤景継)。松平彌右衛門(詳細不明)殿。何◆も此外尓。此とおり之衆。数多候へ共志る寸尓不及……。

※『三河物語』第三下

【意訳】味方の討死は、青木貞治(あおき さだはる)・中根正照(なかね まさてる)。ほか以下のとおり。

討死した一人・成瀬藤蔵(正義)の名前を発見。向こうで乱戦中と思われるが、さてどこだろう……?歌川芳虎筆

鳥居忠広(とりい ただひろ。鳥居元忠の弟) 本多忠真(肥後守) 加藤利正(かとう としまさ) 加藤正信(まさのぶ) 米津政信(よねきづ まさのぶ) 大久保忠寄(おおくぼ ただより。大久保忠世の弟) 河井やつと兵衛(かわい やっとべゑ?)←八郎兵衛か? 杉之原ナつと兵衛(すぎのはら なっとべゑ?)←十郎兵衛か? 榊原忠直(さかきばら ただなお) 成瀬正義(なるせ まさよし) 石河半三郎(いしかわ はんざぶろう。石川数正の一族?)
※数正の子に同じ通称を用いた者がいるが、年代が合わない。別人と思われる。 夏目広次(演:甲本雅裕) 河井又五郎(かわい またごろう。前出の河井やつと兵衛と同族?) 松山久内(まつやま くない/きゅうない) 加藤景継(かげつぐ。加藤利正の子で加藤正信の弟) 松平彌右衛門(まつだいら やゑもん。詳細不明。家康の一族か遠戚か)

この他にもたくさんいるが、記しきれない。

……ここでもただ「本多ひ後守」と、数いる討死者の一人としてリストアップされているだけでした。ちょっと寂しいですね。

もうちょっと頑張りましょう。史料的な信ぴょう性は『三河物語』よりも低くなってしまいますが、『改正三河後風土記』に期待をかけます。

……本多肥後守忠真後殿して引取けるが武田勢大勢にして烈しく追かくれバ忠真度々返し合せて終に討死す……

※『改正三河後風土記』「三方原大戦の事」

敗軍の後殿(しんがり。殿軍)を引き受けて武田の大軍を食い止めて奮戦した忠真。しかし武勇もむなしく討死してしまったということです。

いい感じですが、もうちょっと具体的な戦いぶりが知りたいですね。ということで、次は『寛政重脩諸家譜』を見てみましょう。

……元亀三年十二月二十二日三方原の役に、吾軍利あらずしてすでに御馬をかへしたまふに及びて忠真後殿となり、反り撃ことしばしばにして従者等おほくうち死し、忠真もみづから鎗を執て敵兵六七人を殺すといへどもいよいよ逼り来るにより、鎗を捨刀をもつてまた三人を斬てすて、終に敵中に入て戦死す。法名慶花。三河国大樹寺に葬る。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百八十一 藤原氏(兼通流)本多

鎗を奮って敵兵を6、7人(67人と盛りたいところですが、ここは現実的な数字に。これでも十分に強いです)を倒した忠真。

死力を尽くし、最期まで奮戦する忠真(イメージ)

やがて武田の大軍に押し囲まれると槍を捨てて抜刀、さらに3人を斬った後に力尽きたということです。

周りがすべて敵ならば、当たるを幸い大暴れ。精強で名高い三河武士の面目を、大いに施したのでした。

あの有名なエピソードは?

他にも文献はありますが、ひとまずこの辺にしておきましょう。

ところで本多忠真の最期について、道の両側に旗指物を突き立てて「これより一歩も退かぬ」と宣言したエピソードを聞いたのですが、どれにも出て来ませんでしたね。

そう思ったら、三方ヶ原よりほど近くに建立された「本多肥後守忠真の碑」案内板に、こんな記述がありました。

敵を待ち受ける本多忠真(イメージ)

本多忠真は、三河の松平氏時代からの家康の家臣。
父・本多忠豊は、徳川四天王・本多忠勝(ほんだただかつ)の祖父。
本多忠真は、子の本多菊丸に「主君家康を護るように」と言い残し、道の両側に旗指物を突き刺して「ここから後へは一歩も退かぬ」と、家康を追走する武田軍の中に刀一本で斬り込んで討ち死に。
享年39。
浜松城に無事退却した菊丸は、父の遺骸を三河に葬った後、出家しています。

(後略)

※犀ヶ崖資料館「本多肥後守忠真の碑」案内板より(静岡県浜松市中区鹿谷町25-10地先)

土地の伝承でもあるのでしょうか?その出典を突き止めるべく、更に調査したいと思います。

本多忠真の子孫たち

ちなみに『寛政重脩諸家譜』によると忠真には一人娘がおり(案内板の菊丸は記載なし)、家臣の阿佐美金七郎(あさみ きんしちろう)に嫁ぎました。

女子
家臣阿佐美金七郎某が妻。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百八十一 藤原氏(兼通流)本多

阿佐美金七郎は永禄3年(1560年)5月の桶狭間合戦で丸根砦の攻略に参陣。『松平記』によれば三河一向一揆で家康に弓ひいたそうです。

その後の動向は不明ですが、文中の「家臣」は一揆の鎮圧後、多くの者たち同様に帰参して本多家に仕えた可能性も考えられます。

もしかしたら、忠真の血脈が細々でも後世に受け継がれた可能性があるかも知れません。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では本多忠真がどのような最期で戦場を彩ったのか、浪岡一喜の熱演に期待ですね!

※参考文献:

『改正三河後風土記 上』国立国会図書館デジタルコレクション 『寛政重脩諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション 『日本戦史材料 第二巻 三河物語』国立国会図書館デジタルコレクション

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