草野仁インタビュー「黒柳徹子さんは本当にすごい!」放送38年目の『世界ふしぎ発見!』最強キャスター79歳が語る幼少期、NHK時代、退局…秘話

日刊大衆

草野仁
草野仁

 温厚な人柄と紳士的な話術、一方で鍛え上げられた肉体の持ち主としても知られる、現役バリバリの“スーパーキャスター”草野仁(79)。今回、その伝説の数々と生涯現役の秘密に迫るため、本人を直撃!

 まずは、今年4月に総合司会を勇退、 クイズマスターに就任したことで話題の番組『世界ふしぎ発見!』(TBS系)秘話から!

「38年前、『世界ふしぎ発見!』の司会のお話をいただいた際、“私は報道かスポーツしかやっていないので、エンタテイメントは無理です”と、一度はお断りしているんです。ただ、提案書に書いてあった“あなたもインディ・ジョーンズになってみたいと思いませんか?”という文言に魅力を感じました。そこで、この番組を新しい知的エンタテイメントにできればという思いから、結局はお引き受けしたんです」

■『徹子の部屋』や『ザ・ベストテン』など多忙だったが

 草野以外に、実はもう一人、当初は出演を断った人物がいる。番組の顔であり、現在も出演を続ける黒柳徹子(89)だ。

「出演交渉のために私もスタッフと一緒に黒柳さんのご自宅にお邪魔しました。すると、“私、クイズ番組には出ないの。出ていれば必ずできない問題があって、そのとき、『黒柳徹子って、こんなことも知らなかったの』って言われるでしょ”とおっしゃるんです。そこで、“クイズで競うのではなく、歴史の不思議を面白おかしいトークに交えながら、クイズ形式で紹介する番組にしたいんです”という企画意図をお伝えしました。

 1週間後、黒柳さんは開口一番、こうおっしゃいました。“私、出ます。出させてください。でも、一つだけ条件があるの。1週間前で結構ですから、放送で扱う大まかなテーマを教えてください”と。つまり収録前に、ご自身の見聞を広めるために勉強をされるということでした。こうして、番組では全出演者に事前にテーマをお知らせすることになりました。

 ただ、当時の黒柳さんは、『徹子の部屋』(テレビ朝日系)、『ザ・ベストテン』(TBS系)他、多くのお仕事をされていたので、私は“いくら黒柳さんでも、簡単に勉強できるものではないだろうな”と、高をくくっておりました。ところが、黒柳さんは、どんなにお忙しくても、必ず難しい専門書2〜3冊を最後のページまで読むことを習慣とされました。しかも、38年間、それを続けてらっしゃるのです。本当にすごい方だと思います」

■東京大学に合格後

『世界ふしぎ発見!』以外にも数々の人気番組に携わってきた草野は、終戦の1年半前、1944年(昭和19年)2月に満洲国の新京で生まれた。

「終戦後、父親はシベリアに抑留され、残った母、2人の兄、姉、そして私は母の実家がある長崎の島原に移ります。 幼かったものですから満洲での記憶はありません。また、父親の顔を認識したのは、終戦の4年後に釈放されて日本に戻ってきたときが最初です。子どもの頃は勉強をあまりせず、家の裏にあった柿の木に登るなど遊んでばかりいた記憶があります。活発でしたので、小学校、中学、高校と仲間内では常にリーダー的な存在でした。年が離れた2人の兄は、いずれも理科系で、東京大学に現役合格しています。私も兄に続けと高三のときに東大を受けるんですが、なにしろ勉強をしていないので、見事に落第します」

 一浪後、東大に合格。文学部社会学科で優秀な成績を収め、やがて就職を考える時期を迎えた。

■これからはテレビ放送の時代

「64年の東京五輪でテレビが普及したこともあり、“これからはテレビ放送の時代だろう”と思い、取材記者を目指してNHKを受けました。願書は記者志望で提出し、運よく試験にパスするのですが、採用通知を見て、びっくりしました。“アナウンサーとして採用する”と書いてあったんです。あとで分かるんですが、その時代のNHKは、さまざまな事象に対応できる人材を育てるべく、志望者以外もアナウンサーとして採用していたんです。当時、重複受験を防ぐためにマスコミ各社の入社試験は、すべて同じ日でした。つまりNHKしか受けていなかった。私は就職浪人もできなかったので、アナウンサーの道を選びます」

 当初の希望に反し、アナウンサーという職についたが、目標を見出し、鹿児島、福岡、大阪と各支局に転勤し、スキルを磨いていった。

「記者志望だったものですから、アナウンサーが自分で取材をして、それを表現ができるスポーツの担当を希望しました。鹿児島で県の高校野球の実況から始め、福岡では国際マラソン、“黒い霧事件”で弱体化した西鉄ライオンズの試合などを担当いたしました。大阪に転属してからは春夏の高校野球の決勝、それから、モントリオール五輪の中継要員として派遣されたことも印象に残っています。

■『NHKニュースワイド』のキャスターに

 東京に戻ったのは、入局10年目です。オリンピックを経験したものの、東京ではスポーツアナウンサーとして下っ端ですから、担当するのはNHK杯のフェンシング、フィールドホッケー、馬術と、どちらかというと地味な競技種目が多く、“たまにはプロ野球もやりたいなあ”なんて思いもしました。ただ、よくよく考えてみたら、選手は必死の思いで研鑽を重ねて、年に一度のNHK杯に出場しているわけです。また、その親族や関係者の方も大変な集中力で中継をご覧になるでしょう。 “であれば、いい加減な放送はできないな”と気づいて、競技を深く理解し、ルールを熟知して取り組んだんですね」

 真摯な努力が評価されて、念願かなってプロ野球も担当するようになる。また、81年4月より 『ニュースセンター9時』のスポーツ担当に。2年後には、朝のニュース番組『NHKニュースワイド』の土曜キャスターに起用された。

「『ニュースワイド』には、ラッキーだったことがあります。83年度は、日本ドラマ史上最高視聴率を取った、朝の連続テレビ小説『おしん』が放送されていたんです。そのため、『おしん』の放送が始まる直前の番組後半には毎回、瞬間視聴率がグワ〜ッと上がっていきました」

『ニュースワイド』の視聴率は絶好調で、草野の人気も急上昇したが、85 年にNHKを離れる決意をする。

■TBS『朝のホットライン』新キャスター

「当時のNHKのアナウンサー集団は自らの職域を広げようとせず、仕事の発注を待つだけでした。対して私は、アナウンサーも局内で力を持つ報道局と競争できるように能動的に動くべきだと考えていました。そんなある日、アナウンス室長から“我々は報道局の方針に従うようにしました”という通達があり、私は退局を決意します。ちょうど、そんな頃、幸いにもTBSから“『朝のホットライン』という番組の新キャスターとして入ってくれないか”というお話をいただいたんです」

■徳光和夫の『ズームイン!!朝!』には勝てなかった

 草野仁初の民放番組『朝のホットライン』は、同時間帯の民放で2位の視聴率をキープした。

「ただ、徳光和夫さんの『ズームイン!!朝!』(日本テレビ)だけは抜くことができませんでした。あの番組は、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡など系列各局が、その土地の最新ニュースを伝える構造でした。出演者が一つの方向を向き、強い生命力を生み出している。私たちの番組には、それが欠けていました。『朝のホットライン』は5年で終わりますが、つくづく感じたのは、“視聴者が望むものの、核心部分を、きっちり放送できる番組であるべきだ”ということでした。

■『ザ・ワイド』で教訓が生きた

 その教訓が生かされたのが、3年後に日本テレビのお昼の枠で始まった『ザ・ワイド』です。この番組は従来のワイドショーのような芸能スキャンダル中心ではなく、社会のニュースに斬り込む内容で、私も企画に積極的に参加しました」

『ザ・ワイド』は、旧統一教会問題を鋭くえぐり、さらに翌年以降に発生したオウム真理教による一連の事件の核心に迫っていくことになる。(次号につづく)

■草野仁 略年表

くさの・ひとし 1944年2月24日生まれ。満洲・新京出身。テレビキャスター。1967年にNHK入社。主にスポーツアナウンサーとして活躍し、85年にフリーとなる。現在は、『世界ふしぎ発見!』(TBS系)、『太陽生命Presents 草野仁の名医が寄りそう!カラダ若返りTV』(BS朝日)などに出演中。
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