『いいとこのお坊ちゃん』だった!?忠臣蔵ヒーロー大石内蔵助の実像

日刊大衆

写真はイメージです
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 江戸時代で仇討ちといえば、前回取り上げた「鍵屋の辻」(三重県伊賀市)より知名度で勝るのが忠臣蔵。その中心人物が、主君浅野内匠頭長矩の仇を討った赤穂藩家老大石内蔵助であることに異存はないだろう。

 しかし、芝居やドラマなどの影響で後づけされたイメージばかり先行し、誤解を招いている人物でもある。

 その出自や前半生を含め、江戸時代のヒーローの実像を探った。

 まず、大石家と浅野家(広島藩浅野本家の分家)との関係から見ていこう。大石家(近江出身の武士)は内蔵助の曾祖父良勝のとき、常陸国真壁(茨城県桜川市)の領主だった浅野長重(豊臣家五奉行の一人、浅野長政の三男)に初めて仕えた。

 大坂ノ役(1614~15年)では、良勝の活躍もあって浅野家は五万三〇〇〇石へ加増のうえ、同じ常陸国の笠間転封となり、その活躍が認められ、良勝は家老職と一五〇〇石の家禄を得た。

 その後、浅野家はこの良勝の時代に笠間から赤穂(兵庫県)へ移り、内蔵助は万治二年(1659)、すでに赤穂藩の家老職を世襲していた大石家の長男として生まれた。一五歳のときに父が急死したため、祖父良よし欽たかの養子として育ち、その四年後に祖父も没したため、家督を継いだ。

 ところで、内蔵助という名はその祖父の時代からの通称で、三代目に当たる仇討ちのヒーローの実名は良雄。もともと「よしお」だったが、家督継承後、尊敬する祖父と同じく「よしたか」と読むようになったとされる。

 そして、見習期間を経て、二一歳で赤穂藩国家老の上席となった。

 彼は縁戚関係にも恵まれている。妻理り玖くは但馬豊岡藩(兵庫県)京極家の家老の娘。内蔵助の祖母は徳川家康の重臣鳥居元忠の娘だった。元忠は、関ヶ原の合戦(一六〇〇年)の前哨戦で壮絶な討ち死を遂げた猛将だ。

 さらに、内蔵助の母は岡山藩(池田家)家老の娘で、徳島藩初代藩主蜂須賀家政の曾孫(次女の孫娘)に当たる。

 このように大石家は華麗な縁戚関係を誇り、内蔵助は今でいう「いいとこのお坊ちゃん」だった。

 こうして門閥家老と呼ばれる家柄の世継として大事に育てられたわけだから、ドラマなどで「昼行燈」と揶揄されても不思議ではない。

 ただし、当時、内蔵助がそうあだ名された記録はない。討ち入り後、当時の知識人たちが「あくせくとして自らを用いることをなさず」(儒学者の栗山潜峰)、「常に韜晦(自分の才能を隠すこと)してあらわさず」(儒学者の五井蘭州)などという内蔵助評を下し、それらが一人歩きし、後世、「昼行燈」というあだ名が定着していったとみられる。藩が改易にならずにいたら、門閥家老として、ごくごく平凡に世を送ったことだろう。

 しかし、元禄一四年(1701)三月一四日に江戸城内で内匠頭が吉良上野介義央を斬りつけて幕府から切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰された。早駕篭によって赤穂にその報が届いたのは一九日の早朝。初めは上野介の生死、つまり、幕府が喧嘩両成敗の原則に基づき、処罰したかどうか分からず、内蔵助はまず、赤穂城明け渡しの際、浅野家再興を幕府に乞い願うため、大手門の前で切腹して果てようとした。

 ところが、上野介が生きていることが分かり、仇討ちに考え方を改めたようだ。とはいうものの、まだ浅野家再興の願いが消えたわけではなく、内蔵助は、城受け取りの使節が来たら一戦を交えて玉砕するという過激な家臣らを抑え、四月一九日、城は無事、明け渡された。

 以降、浅野家再興と仇討ちへ向け、内蔵助が動き出すことになる。

 彼は六月二五日に赤穂を去り、二八日、京近郊の山科に入った。寓居は、江戸から急使が赤穂に到着した直後から親戚筋の者に探させたもので、用意周到な内蔵助の性格がよく現れている。ここで必ず語られるのが彼の放蕩生活だ。

 祇園の有名な「一力茶屋」に通っていたというものの、山科から近い伏見の花街橦木町でならともかく、いくら“お坊っちゃん”の元家老と言っても、祇園で有名な茶屋で放蕩三昧できるほどの遊興費を持ち合わせていない。

「内蔵助が仇討ちの本意を隠すために遊興を繰り返した」というのも後世の作り話だろう。

 この頃、内蔵助は義絶を求める手紙を親戚筋に出しており、その辺りから内蔵助の放蕩という逸話が生まれたのではなかろうか。

 その後、内蔵助は一一月三日に江戸入りするが、その目的は泉岳寺(東京都港区)にある主君の墓参りのほか、討ち入りを急ごうとする堀部安兵衛ら江戸急進派をなだめることにあったとされる。一方、(財)中央義士会の前理事長中島康夫氏によると、内蔵助が瑤泉院(内匠頭の未亡人)から預かっていた六九〇両を仇討ちのために使うことの許可を取り付けることが真の江戸下向の目的だったという(『真説・忠臣蔵 大石内蔵助の生涯』)。

■「南部坂雪の別れ」は史実ではないとされる

 内蔵助と瑤泉院というと、ドラマなどの「南部坂雪の別れ」の名シーンで有名だ。討ち入りの前日、内蔵助が南部坂(東京都港区)の屋敷に暮らす瑤泉院を訪ねたものの、屋敷内に吉良方の間者が潜入している可能性を恐れ、「西国の大名に召抱えられた」と偽りを言って別れを告げた。

「忠義の心も忘れたか」と怒って席を立つ瑤泉院だが、やがて、内蔵助が置いていった旅日記が浪士たちの連判状だと知り、別れの意味を初めて悟った彼女が亡き夫の霊前に合掌するというストーリーだ。

 もちろん、史実ではない。しかし、内蔵助が討ち入りの一年前に瑤泉院を訪ねたのだとしたら、どんな会話がなされたのだろうか。

 さて、一回目の江戸入りから、いったん上方へ戻った内蔵助だが、明けて元禄五年(1702)七月に再興の願いが消え、吉良邸討ち入りのため、一一月五日、再び江戸の土を踏んだ。そして、一二月一四日に吉良邸で茶会が開かれると耳にするが、ここでも内蔵助は用意周到だった。

 複数のルートを使い、情報の裏取りを行って浪士たちが確信して討ち入りできる態勢を整え、彼らは見事、宿願を遂げることができた。

 自らに課せられた役割に対して周到に準備を重ね、力強く生きた内蔵助。“いいとこのお坊っちゃん”のイメージとは、かけ離れた人物だったといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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