『いいとこのお坊ちゃん』だった!?忠臣蔵ヒーロー大石内蔵助の実像 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 江戸時代で仇討ちといえば、前回取り上げた「鍵屋の辻」(三重県伊賀市)より知名度で勝るのが忠臣蔵。その中心人物が、主君浅野内匠頭長矩の仇を討った赤穂藩家老大石内蔵助であることに異存はないだろう。

 しかし、芝居やドラマなどの影響で後づけされたイメージばかり先行し、誤解を招いている人物でもある。

 その出自や前半生を含め、江戸時代のヒーローの実像を探った。

 まず、大石家と浅野家(広島藩浅野本家の分家)との関係から見ていこう。大石家(近江出身の武士)は内蔵助の曾祖父良勝のとき、常陸国真壁(茨城県桜川市)の領主だった浅野長重(豊臣家五奉行の一人、浅野長政の三男)に初めて仕えた。

 大坂ノ役(1614~15年)では、良勝の活躍もあって浅野家は五万三〇〇〇石へ加増のうえ、同じ常陸国の笠間転封となり、その活躍が認められ、良勝は家老職と一五〇〇石の家禄を得た。

 その後、浅野家はこの良勝の時代に笠間から赤穂(兵庫県)へ移り、内蔵助は万治二年(1659)、すでに赤穂藩の家老職を世襲していた大石家の長男として生まれた。一五歳のときに父が急死したため、祖父良よし欽たかの養子として育ち、その四年後に祖父も没したため、家督を継いだ。

 ところで、内蔵助という名はその祖父の時代からの通称で、三代目に当たる仇討ちのヒーローの実名は良雄。もともと「よしお」だったが、家督継承後、尊敬する祖父と同じく「よしたか」と読むようになったとされる。

 そして、見習期間を経て、二一歳で赤穂藩国家老の上席となった。

 彼は縁戚関係にも恵まれている。妻理り玖くは但馬豊岡藩(兵庫県)京極家の家老の娘。内蔵助の祖母は徳川家康の重臣鳥居元忠の娘だった。元忠は、関ヶ原の合戦(一六〇〇年)の前哨戦で壮絶な討ち死を遂げた猛将だ。

 さらに、内蔵助の母は岡山藩(池田家)家老の娘で、徳島藩初代藩主蜂須賀家政の曾孫(次女の孫娘)に当たる。

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