尊すぎかよ!本願寺顕如が結婚31年目に妻と交わした和歌がコチラ【どうする家康?】

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尊すぎかよ!本願寺顕如が結婚31年目に妻と交わした和歌がコチラ【どうする家康?】

聞くところによれば、人間の恋愛感情というものは長くて3年ほどしか続かないと言います。

どれほど愛し合って結婚した夫婦でも、確かに3年もすればお互い空気のように感じてしまうとか。

これは動物としての生殖本能が関係するそうで、良くも悪くも仕方がないことだそうです。

しかし、そんな中でもずっとお互いを愛し合う夫婦も少なからず存在します。

今回は戦国時代、一向門徒を率いて活躍した本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)こと顕如(けんにょ)とその妻・教光院如春尼(きょうこういん にょしゅんに)を紹介。

結婚31年目、天正16年(1588年)の七夕に、こんな和歌を詠み交わしたのでした。

何年経っても変わらない、尊すぎる夫婦の絆

年に一度の逢瀬を楽しむ乙姫と彦星。月岡芳年「月百姿 銀河月」

いくとせも ちぎりかわらぬ 七夕の
けふまちへたる あふせなるらん 顕如

ちょっと読みづらいので漢字を当てると「幾年も 契り変わらぬ 七夕の 今日待ち経たる 逢瀬(おうせ)なるらん」となります。

意味としては「結婚して何年も経つけれど、あなたへの想いはずっと変わらないよ。今夜の七夕デートを、彦星のようにずっと心待ちにしていたんだ」といったところ。

こんな和歌を贈ったら、妻に照れ隠しでぶっ飛ばされるか、日ごろの関係によっては鼻で笑われるかも知れませんね。

でも、如春尼は夫をぶっ飛ばしも笑いもせず、こんな返歌を贈っています。

いくとせの かはらぬ物を 七夕の
けふめづらしき あうせなるらん 如春尼

漢字を当てると「幾年の 変わらぬ物を 七夕の 今日珍しき 逢瀬なるらん」。

何年経ってもあなたへの想いは変わりませんが、今夜の七夕デートは、まるで初めて出会った時のようにドキドキしています……そんな意味合いです。

こちらも夫に負けていません。乙姫だって、彦星に逢うのは一年ぶり。一緒に過ごせるのが本当に嬉しかったのでしょうね。もう尊すぎます。

弘治3年(1557年)4月17日に結婚してから31年。もちろん色んなことがあったでしょう。二人の道のりは、決して平坦ではなかったはずです。

それでも力を合わせ、様々な危機を乗り越えてきた夫婦だけがたどり着ける境地だったのかも知れませんね。

顕如と如春尼、それぞれの略歴

信長との対決に臨む顕如(画像:Wikipedia)

以上、顕如と如春尼の熱愛エピソードを紹介してきましたが、せっかくなので二人の略歴も紹介したいと思います。

【顕如の略歴】

顕如は天文12年(1543年)1月6日に本願寺の第10世・証如(しょうにょ)の長男として誕生しました。

12歳となった天文23年(1554年)8月12日に出家し、翌13日に本願寺教団を受け継ぎます。

大坂の石山本願寺を拠点に、各地の一向門徒を管理することで教団の最盛期を築き上げた顕如はやがて織田信長(おだ のぶなが)と敵対。

室町将軍・足利義昭(あしかが よしあき)の呼びかけに応じ、いわゆる信長包囲網に参加します。

紀伊の雑賀衆や長島一向一揆などと連携、自身も石山本願寺に篭城して徹底抗戦を試みた顕如。しかし包囲網の盟主的存在であった武田信玄(たけだ しんげん)の病死をはじめ、盟友らが次々と信長に滅ぼされていきました。

最終的には天正8年(1580年)に朝廷の仲介により信長と和睦。信長の死後は羽柴秀吉(はしば ひでよし)の管理下に置かれてしまいます。

そして天正20年(1592年)11月24日に世を去ったのでした。享年50歳。

【如春尼の略歴】

如春尼は天文13年(1544年)、左大臣・三条公頼(さんじょう きんより)の三女として生まれました。

姉に武田信玄の正室・三条夫人(さんじょうふじん)がおり、顕如と信玄は義兄弟の間柄になります。

弘治3年(1557年)に六角承禎(ろっかく じょうてい。六角義賢)の養女となって顕如へ嫁入り。永禄元年(1558年)9月16日に長男の教如(きょうにょ)を生みました。

その後も永禄3年(1560年)に長女、永禄7年(1564年)1月22日には次男の顕尊(けんそん。興正寺へ養子入り)、そして天正5年(1577年)には三男の准如(じゅんにょ)を生みます。

天正20年(1592年)に夫が亡くなると、長男の教如が本願寺教団を継承。しかし如春尼は三男の准如に教団を継がせるよう、秀吉に願い出ました。

理由については諸説あり、如春尼が教如の側室である教寿院(きょうじゅいん)と対立していたためとか。

願いを聞いた秀吉は、教如に対して10年後に准如へ教団を譲るよう命じました。すると教如が不服を唱えたため、ただちに強制引退。教団は准如が継承しました。

そして慶長3年(1598年)1月16日に55歳で世を去ったのです。

終わりに

本願寺教如(画像:Wikipedia)

以上、本願寺夫妻の絆とそれぞれの生涯をたどってきました。今年も七夕が来たら、今回のエピソードを思い出すと、新鮮な気持ちで過ごせるかも知れませんね。

戦国乱世のまっただ中にあって、一向門徒を束ね上げて信長と対立した顕如と、夫の奮闘を支えた如春尼。波乱に満ちた二人の日々は、現代もなお人々に感動を与えています。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では多分(信長の覇業に隠れて)割愛されてしまうのでしょうが、秀吉の死後に教如が徳川家康(とくがわ いえやす)と会っているため、一縷の望みに賭けたいところです。

※参考文献:

赤松徹真ら編『真宗人名辞典』法蔵館、1999年7月 千葉乗隆『図解雑学 浄土真宗』ナツメ社、2005年3月 芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年6月

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