信玄の死を隠し通した!?武田信玄の影武者として知られる武田信廉を紹介【どうする家康】

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信玄の死を隠し通した!?武田信玄の影武者として知られる武田信廉を紹介【どうする家康】

『どうする家康』18話「真・三方ヶ原合戦」にて、病気で動けなくなった武田信玄の代わりに信玄の影武者が登場しました。おそらく、徳川家康の影武者となった夏目広次と対比の目的で登場させたかと考えられますが、本当に信玄の影武者がいたのか気になった方もいるかと思います。

実際のところ、信玄の影武者はいました。気になるその人物は武田信廉(たけだ-のぶかど)、信玄の弟にあたる人物です。

今回は信廉の簡単な生い立ちと影武者として活躍した逸話を合わせて紹介します。

武田信廉/Wikipediaより

親族衆筆頭として

信廉の兄・武田信繁/Wikipediaより

信廉は武田信虎の六男に当たり、天文20年には兄の信玄の命令で今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)を武田義信の正室に迎えることを義信に伝える取次役を担いました。

また、信玄と信繁の同母弟で、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで信繁が討ち死にすると、親族衆筆頭を任されます。戦いの時は主に本陣守備や後方守備を任され、武田軍を裏で支える役割をしていました。

画家として知られた信廉

信繫作の武田信虎像/Wikipediaより

元亀4年(1573)信玄が病死した後、信廉は一族の重鎮として飯田城や大島城の城代として武田家を支えることになります。この頃には父の信虎が帰国を望んだため、居城の高遠城で引き取りました

引き取った理由として、信虎が信廉のことを可愛がっていたことや、可愛がられたことに対する感謝の意を示したことが要因となっているかもしません。

この時に描いた「武田信虎像」は重要文化財となっています。他にも、「武田信虎夫人像」や「渡唐天神像」の作品を残し、画家としても知られています

勝頼とはそりが合わず…

武田勝頼/Wikipediaより

信廉は、武田勝頼とそりが合わず、天正3年(1575)の長篠の戦いに参加するも、穴山信君と共に早々と退却しています。天正10年(1582)の甲州征伐でも、抵抗することなく大島城を明け渡しています。

その後は、織田軍の残党狩りだった森長可の配下に名馬を見せると騙されて討ち取られました。

影武者信廉

武田信玄/Wikipediaより

信廉は信玄と顔が似ていると言われており、側近ですら見分けがつかないほどでした。そのため、西上作戦中の信玄病死の際は、影武者として成りすまし撤退を指示しています。

また、信玄の死を確かめに来た北条家からの使者・板部岡江雪斎(いたべおか-こうせつさい)に信玄として振る舞い、その死を隠し通したとの話が残っています。

最後に

信玄の影武者として生きた武田信廉。大きな戦功もないので、武将としての能力は信玄や信繁と比べると低かったのかもしません。また、絵を描く才能があり、信玄と顔が似ていなかったら、戦国武将ではなく画家として戦国時代を生きていたかもしませんね。

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